楽しく元気に働ける町にしたい!

塩尻商工会議所 事務局長 海津健司さんの耕し方 2017.2.2

商工会議所。名前は知っている。でも何をしているところなの? という方も多いのではないだろうか。
塩尻商工会議所が設立されたのは、1949年。会員数は約2000人で、職員は会員から経営や人事の相談を受けたり、講習会や研修会、まちの振興事業を企画、運営している。例えば、2011年から始まった「木育フェスティバルイン信州しおじり」や、12年にスタートした「塩尻知る知りゼミナール(シリゼミ)」も商工会議所が主体になっているイベントだ。
ちなみに、「木育フェスティバル」がきっかけとなって、塩尻市は木育推進の「ウッドスタート宣言」をし、16年度からは新生児に木のおもちゃをプレゼントするようになった。また、昨年には初の地方開催となる「第3回全国木育サミット」が塩尻で開催された。
事業者や商店の店主、従業員が先生役になって仕事に関するワークショップを行うシリゼミは、現在事業者で組織するシリゼミの会の運営になり、毎回30講座程度を開講。10講座以上も受講するシリゼミファンも現れている。
いまや塩尻のまちにしっかりと根を下ろしている木育とシリゼミ。その裏方として企画段階から奔走してきた人、それが塩尻商工会議所の海津健司さんだ。


まちづくりのアイデアを組織で実現

海津さんは、塩尻生まれの塩尻育ち。祖父と父が地元で写真館を開いていたこともあり、商店街を遊び場のようにして育ったという。
もともと父から「違う道を生きろ」と言われていた海津さんは大学を出た後、某大企業で働き始めた。しかし、25歳の時に父が急逝。ひとり残された母親のことも考え、帰郷して写真館の仕事を引き継ぐことにした。
その時に商工会議所の会員になり、若手が集まる青年部のメンバーにもなって、地域の経営者、若手の後継者たちと縁ができた。それぞれの事業を抱えながら、「これからの塩尻」についても熱く語りあったそうだ。
「ワインを塩尻の特産にしようということで、青年部のみんなで屋台の免許を取って、屋台でワインバーを開いたりしていましたね。地区ごとに塩尻の良さを挙げて、ブラッシュアップして、それを市長に提言したり。夜な夜な、みんなでバカ言いながら話し合っていたことだから夢物語みたいなアイデアもあったと思うんだけど、良い時間でしたよ」。

 


それから時は流れ、世にデジカメがあふれ出してくると、写真館の仕事の雲行きが怪しくなってきた。そうして「これから写真の仕事をどうしようか」と考え始めた時、商工会議所の職員として声がかかった。
商工会議所からすると、地元の経営者たちと強いつながりを持つ海津さんは、職員としてこれ以上ない適任者だったのだろう。
40歳で経営者からサラリーマンに戻ることに不安を感じた海津さんも、腹をくくった。
「青年部の時代に、まちづくりについてみんなで語り合ってきたでしょ。でも、なかなか会議所や行政を動かせなくて、もどかしいこともあった。それだったら自分が会議所という組織に入って、自分たちがいままでやりたいと言い続けてきたことを実現させた方がいいのかなと思ったんですよね。ひとりの社長では動かせないことも、組織であればいろいろな窓口になれるじゃないですか」。


経営者たちのアイデアの「窓口」に

海津さんが商工会議所の職員になると、かつての経営者仲間たちから「あれがやりたい」「これがやりたい」と相談が持ち込まれるようになった。海津さんはその「窓口」として、企画を実現するために知恵を絞った。
木育も、「木育を広めたい」という地元の漆器企業、酒井産業からの相談で始まった。「木育ってなに?」という状態から勉強を始めて木育事業に意義を感じた海津さんは、酒井産業の担当者と一緒に行政の関係者を口説き落とし、視察に行き、補助金の申請など事務作業も請け負って、2011年の「第1回 木育フェスティバル」の開催にこぎ着けた。
「いまでは塩尻市の子育て支援センター、教育総務課、森林課、長野県の林務部、林業センターも協力してくれているし、木のおもちゃをつくっている企業や、野外での森林体験をしている人などを巻き込んで、木育の実行委員会をつくりました。県と市と民間企業がまとまっている実行委員会は他にはないと思います」。
「面白そうだと思ったら、なんか動きたくなっちゃうんだよね」と笑う海津さん。愛知県岡崎市で2003年に始まった「まちゼミ」をベースにしているシリゼミも、「まちゼミ」に興味を持った海津さんが、「まちゼミ」の発案者である松井洋一郎さんに、ある日、面識もないのに「何か教えてもらえませんか?」とメールをしたことから始まった。そうして、海津さんの原点である商店街の仲間たちと一緒に、シリゼミをつくり上げていったのだ。


写真館の写真家から、地元企業と市民、行政をつなぐコーディネーターへ。08年に転身してから8年、生活は一変したが、「生まれ育った町を少しでも良くしたい」という想いで、今日も塩尻のまちを駆けまわっている。
「自分を育ててくれたこの町がとどんどん衰退していくのは淋しいな、と。だから、みんなが楽しく元気に働いて良い町になってほしいし、逆に言えば、良い町になって人が来ないと商売にならない。そのために、まちづくりというテーマで面白いこと仕掛けていきたいし、新しい発想をみんなで共有して意見を言い合える環境が大切なので、そういう場をつくっていきたいなと思っています」。

 

取材:2017年1月

文:川内イオ/写真:望月葉子

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