下水道から図書館まで。塩尻を耕してきたまちづくりのキーパーソン。

株式会社しおじり街元気カンパニー 代表取締役 藤森茂樹さんの耕し方 2024.01.31

塩尻の街をめぐっていて、目につくお店や施設がある。

中心街にある市民交流センター「えんぱーく」、起業家が集うシビックイノベーション拠点「スナバ」、木曽平沢の宿・喫茶ギャラリー「日々別荘」に、洗馬にできたラグジュアリー古民家ホテル「LA TERRA」、商店街の一角にできたシェアハウス「en.to」、伊那市から移転した知る人ぞ知る古民家カフェ「たね」など……。

左上:中心街にある市立図書館「えんぱーく」、右上:起業家が集うシビックイノベーション拠点「スナバ」、左下:木曽平沢の宿・喫茶ギャラリー「日々別荘」、右下:ラグジュアリー古民家ホテル「LA TERRA」(写真提供:クレジットに記載)


塩尻の街並みの中でもきらりと光る、これらの施設には一つの共通点がある。

それは、今回取り上げるまちづくり会社「(株)しおじり街元気カンパニー」(以下、街カン)社長で元塩尻市役所職員の藤森さんが物件の仲介や構想の企画段階から関わっているということ。

藤森さんがいなかったら、今の塩尻市の街並みは随分と変わっていたと言っても、決して言い過ぎではないだろう。

けれど、藤森さんご本人の控え目で謙虚なお人柄も相まって、その活躍はあまり表には見えてこない(きっとこの記事も「持ち上げすぎかな」と謙遜されるに違いない)。あくまで縁の下の力持ちとしての役割を全うしてきた。

今回の塩尻耕人では、塩尻の景色をつくり続けてきた、まちづくりの立役者・藤森さんの半生に迫りながら、塩尻のまちづくりの歴史を紐解いてみたい。


お手本はNY。図書館から始まったまちづくり

取材のために向かったのは、塩尻の中心街にある市民交流センター「えんぱーく」。

中心市街地でも一際目を引く現代的なガラス張りの建物で、市立図書館の他にも、子育て支援センター、商工会議所、行政機関などが集まった複合施設だ。一歩足を踏み入れると、そこが公共施設であるということを思わず忘れるほど、開放的で独創性に富んだ気持ちのいい空間が広がっている。

2010年に開業し、年間で60万人を超える人が訪れ、公共施設としては異例の人気を誇る。塩尻市民はもちろん、観光客やビジネスパーソンなども訪れる、まさに塩尻市の顔とも言える代表的な施設だ。


「できるまでは、ドキドキでしたよ。構想を描いた当初は、議会からも市民の皆さんからも『行政がそんなにお金をつぎ込んで大丈夫か』と反対や心配もされました。でもこうやって多くの方に利用してもらえる施設になって本当によかったです」

当時の様子を笑顔で振り返るのは、えんぱーくの構想段階からプロジェクトを主導した、藤森茂樹さん。

えんぱーくが出来上がった2010年ごろは、中心市街地の商業施設が相次ぐ撤退で空洞化しており、駅に近い町の玄関口でもあった中心市街地を活性化させることは市にとって急務だった。そんな時に、藤森さんが中心市街地の活性化推進室長に着任した。

しかし、中心市街地を活性化するといっても、新たに商業施設を誘致するのも難しい。

「そこでコミュニティセンターのような公共施設をつくることによって新たな人の流れを作り、中心街を盛り上げられないかと考えました」

コミュニティセンターというおぼろげなイメージが、図書館というビジョンへと具体化したのは、上司から勧められて読んだ、ある一冊の本がきっかけだった。

『未来をつくる図書館 -ニューヨークからの報告-(菅谷明子・著) 』という、世界的にも注目されているニューヨーク公共図書館について書かれた本だ。

本の書き出しにはこんな一節が紹介されている。

ニューヨーク公共図書館は、単に本を借りるための場所ではない。名もない市民が夢を実現するための「孵化器」としての役割を果たしてきた。ここからは、アメリカを代表するビジネス、文化・芸術が数多く巣立っている。(注)

「非常に感動してね。図書館から始まるまちづくりがあるんだと。まさにこういう施設を中心市街地につくれれば、目指したいコミュニティの活性化にも繋げられるんじゃないかって思えたんです」

方向性が定まり、さっそく藤森さんをはじめとしたプロジェクトメンバーの手によって建築構想が作成された。図書館や子育て支援センターなどの他に、当初は住宅も30戸ほど併設予定だった複合施設で、総工費は53億円にものぼる一大プロジェクトだった。

議会からは巨額の予算に対する批判や、図書館協議会からは、飲み屋が多い中心街ではなく、自然環境のいい郊外につくるべきだという反対の声も根強かった。

「でも、郊外に作っても学生さんたちは図書館に気軽に通えなくなってしまうし、駅に近い中心市街地にこそ、この施設をつくる意味があるという確信が私の中にはありました」


また、一大プロジェクトだからこそ「思い切りも大事」だと語る藤森さん。えんぱーくの設計パートナーを公募するための募集要項を藤森さんが作成した際には、「公共施設だからこそ、面白い工事をやりたい」と通例に反して、公共建築物を設計したことがない会社でもエントリーOKという仕様に。

応募ハードルが大幅に下がり、一般的に公共案件をやってこなかった新進気鋭の設計事務所など、多種多様な企業が応募できることに繋がり、結果的には191件もの応募が全国から集まった。

そして何ヶ月にも及ぶ選考ののち、最終的には横浜の設計事務所がプロポーザルを受託。構想から7年の月日を経て、えんぱーくは完成した。

開業してから10年以上が経った平日日中の時間帯でも、中高生やシニア世代が読書したり、勉強に勤しんでいる姿がえんぱーくのあちこちで見られる。その光景が藤森さんが貫いた信念に間違いがなかったことを物語っているようだった。

 

振興公社、そしてまちづくり会社「街カン」の立ち上げ

苦労の末に中心市街地活性化の一手として建設されたえんぱーくだったが、実は工事が着工された翌年、2009年に塩尻市民の生活を支え続けてきた、えんぱーく前のイトーヨーカ堂も経営不振を理由に撤退することが決まってしまう。

えんぱーくの着工に喜んだのも束の間、藤森さんたちはイトーヨーカ堂の撤退後の空きビル再生にも取り組むことになった。

ショッピングセンター ウィングロード(大門エリア)。 イトーヨーカ堂の撤退に伴い、塩尻市民の生活を支える商業施設として2010年に再生。街カンがビル管理などを担当。


その後、藤森さんは空きビル再生事業を推進するために塩尻市役所の経済事業部長として塩尻市振興公社の立ち上げに関わり、イトーヨーカ堂はショッピングセンターのウィングロードとして再生。さらにより民間側から中心市街地の活性化を持続的に進めていくために、官民共同出資型のまちづくり会社である「(株)しおじり街元気カンパニー」(街カン)を立ち上げることになる。

「市は2割の出資だったので、残りは民間から集めないといけなかったんですけど、当初は難航して。銀行にお願いしますって頭を下げても、採算がとれるかわからない事業には出資できないと断られてしまって」

しかし、藤森さんの熱意と誠意が伝わり、商工会議所の協力が得られると、そこから応援者が次々と現れ、1,750万円もの出資金をなんとか集めることができたという。

最初の2年間は赤字が続いたが、市からのプロポーザルを勝ち取って駐車場事業を受託することができ、3年目からはなんとか黒字にまで持っていくことができた。

他にも藤森さんは市の部長として、2011年には駅前広場と観光センターの整備事業にも携わり、さらに2012年には駅前の13階建てのビルに福祉法人を誘致する再開発を実現させるなど塩尻の景色をつくるような多くのビッグプロジェクトを手がけていった。

県外事業者だった福祉法人を誘致することに成功した


「下水道」と「区画整理」から始まった、まちづくりのキャリア

ここまでの話を聞く限りは、一貫して華やかなまちづくりに関わってきたと言う印象を受ける。しかし、藤森さんがユニークなのは、えんぱーくのプロジェクトに関わるまでの20代から40代中頃までは人の目には見えない「裏側」のまちづくりの経験が長かったという点だ。

もともと信州大学の工学部を卒業後、塩尻市役所に入庁した藤森さんは、下水道整備、圃場整備、区画整理など、表には見えづらい街のインフラを支えるような仕事が長かった。

そもそもなぜ最初のキャリアとして塩尻市役所を選び、まちづくりの土台を整える、土木系の分野に進んだのだろうか。

「高校の頃から語学が全くダメだったので、理系しかないと思って、信州大学の工学部に入ったんです。卒業後は大手の建設会社とかコンサルなんかもあったんだけど、なんとなく都会よりも地元かなあって。私ってなんとなく田舎っぽいでしょう。それで市役所に入ったら最初の部署が土木課だった」

入庁まもない1980年台は、下水道のインフラが整備されていたタイミング。新人ながらゼロから図面を引いて、塩尻中に下水道を次々と敷設していった。さらに26歳の時には、総工費40億円もの浄化センター建設プロジェクトのメンバーに指名される。

「土木技術者としては若いうちから大きな案件を任せてもらって、いい経験をさせてもらいました。塩尻の下水道のことならなんでもわかりますよ」

目に見えないけれど、生活の基盤である下水道からまちづくりのキャリアをスタートさせた藤森さんにとって、「最もしんどかった」のが、その後35歳から約6年間にわたって取り組んだ、都市計画の仕事だった。

その内容は、市役所の西側にある桔梗町の区画整理にともない、99軒もの住宅を移転させなけばいけないというもの。住宅移転をするということは、元々所有していた土地よりも狭くなったり、わざわざお金を払って土地を購入することなどを住民にお願いしなければならない。藤森さんはそのような無理なお願いを初対面の住人にするという困難な役回りを引き受けることになったのだ。

「一軒一軒、家をまわって交渉してね。でも、揉めることも結構あって。玄関先で拒否をされたり、こんにちはって挨拶をすればギッと睨まれたりね。私は『今日は帰ります』って言うしかなかった。一番苦労したお宅は、7、8回の訪問でやっと玄関まで入れてもらえて、そこからさらに条件交渉で3年くらいかかったなあ。そんな仕事を6年ほど続けましたね」

下水道の頃とは打って変わって、市民の感情にまっすぐ向き合わなくてはならない仕事。精神的にも追い詰められ、タフな藤森さんでも一時期はノイローゼになりかけたと話す。

最終的には、なんとか担当した70軒全てから移転に合意する印鑑をもらい、無事に区画整理を実現することができた。

「もう2度とああいう仕事は無理だね」と笑いながら当時を振り返る藤森さん。

目に見えない、時に市民から嫌がられる、そんな目立たないまちづくりに20代と30代で携わったことが、その後のまちづくりのプロフェショナルとしての藤森さんの足腰を鍛えていった。

 

一軒の空き家から見えてくる地域全体の課題

そうして、長い下積みを経て、えんぱーく、振興公社、街カンの立ち上げに携わってきた藤森さんのキャリアは、塩尻のまちづくりの歴史とそのままリンクする。

40年以上にわたって、いくつものまちづくり事業を手がけているからこそ、思い入れのあるプロジェクトは何なのだろうと気になって質問してみると返ってきたのは意外な一言だった。

「大きなプロジェクトにもたくさん関わらせてもらったけど、私にとっては空き家バンクの管理運営事業を通じて、小さな物件を一つずつやっていくことがやはり原点ですね。空き家だった場所に使い手が見つかって仲介が成約する。その時にオーナーさんから言ってもらえる『ありがとう』っていうお礼の一言。その一言が嬉しいですね。お金を儲けるために仕事しているわけじゃないんですよね」

まちづくりというと、その事業が街にどれだけのインパクトを残せるかという「大きさ」に目がいってしまいがちだが、藤森さんはあくまで一つ一つの空き物件、一人ひとりの住民に向き合っている。そこに藤森さんの実直で誠実な人柄が現れているようだった。

さらに最近は空き家再生だけでなく、エリア全体のグランドビジョンの策定にまで関わるようになっているという。

「一軒の空き家から、その地域の課題がどんどん見えてくるんです。木曽平沢でいえば、空き家の相談が舞い込んできて、行ってみたら家の基礎から腐っていて、なかなか利活用が難しい。でも、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されているから、勝手に直すこともできない。そんな家がごろごろあって、表からは見えてこない木曽平沢の課題も見えてきて。これはなんとかしないとなあって」

そんな背景から、木曽平沢というエリア全体を活性化させる拠点として冒頭に紹介した「日々別荘」という宿・喫茶ギャラリーが街カンのプロデュースによって作られた。木曽平沢のケースのように、空き家という「点」を通じて、集落全体という「面」の活性化が今後求められていくという。

実際、木曽平沢のようなエリアが塩尻にはいくつかある。今後、1地区ずつ、集落の将来ビジョンを地域住民と共に描いていく予定だ。

「グランドビジョンは、地域住民の皆さんからたくさんお話を伺いながら作っていくんです。そうすると、普段はなかなか口にしないけれど気になっていた地域の課題や、こんな地域にしたいという願いが出てくる。数時間かけてじっくりワークショップをするので、みなさん言いたいことが言えたと満足げに帰っていかれます」

行政や街カンが主導して地域に必要な「点」を整備していくことはもちろん重要だけれど、地域という「面」の活性化を考えた時、そこに住む一人ひとりの内発性を引き出していくことも重要だろう。街カンの役割も、点づくりから面への支援へと変わってきているのかもしれない。

 

塩尻を支え続けた「大樹」が育てる次の「芽」

そんな藤森さんも2024年で69歳を迎える。

「とはいえ、私ももう定年過ぎの年ですからね。そろそろ引退も考えたい年頃になってきました。あと5年頑張れるかなあ」

取材中、そんな本音も漏れたが、すかさず同席していた街カンスタッフの今井さんと近藤さんからは、「まだまだ引退はできないですよ!(笑)」と引き止められていた。

今井さんや近藤さんのみならず、藤森さんの下には、いつもベテランから若手職員まで多くの人が相談にやってくるほど、みんなから慕われている。

「藤森さんのところには本当に幅広い世代の人が相談しに来るんです。市役所内からはもちろん、地域からも。実績が豊富なのに話しやすいし、的確なアドバイスをくれるので。本当にあらゆる相談が集まってきていますよね」(今井さん)

藤森さんは決してグイグイとみんなを引っ張る剛腕なタイプではない。自負して良いほどのまちづくりの実績がありながら、あくまで自然で、当たり前のこととしてやってきた、という謙虚な姿勢を感じる。それでいて、ときおり見せる強い信念やリーダーシップのようなものもある。

「森」や「樹」が名前にあるように、藤森さんは深く根を張り、空へと大きく枝葉を伸ばし、みんなを優しく包み込んでくれるような、安心感とたくましさを兼ね備えた大樹のような人に思われた。

塩尻という街にとって大きすぎる藤森さんという存在。引退も考え始めた藤森さんは「これからの私にできるのは、人を残していくことしかない」と考えている。

「今井さんや近藤さんは私の娘みたいな年齢だけれど、私がやっていることを分かってくれて一部でも引き継いでくれているし、市役所の中にも引き継いでくれる次の世代が育ってくれているように思いますよ」

文字通り塩尻のまちづくりの土壌を耕し、根を張り、塩尻のまちづくりを支え続けた大樹の周りには、次の塩尻を支えていく若木がいくつも芽吹いている。

 

(注)菅谷明子『未来をつくる図書館−ニューヨークからの報告−』岩波書店、2003年、p.2

 

取材:2023年12月

text:北埜航太 photo:遠藤愛弓(人物)

edit:今井斐子、近藤沙紀

 

写真提供

市民交流センターえんぱーく 設計:コンテンポラリーズ 写真:大野繁

スナバ、日々別荘、LA TERRA

塩尻を
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取り組み

塩尻耕人たち