暮らしを支えるセラミックス企業が目指す、地域と共に発展する未来

株式会社レゾナック・セラミックス 塩尻事業所長兼工場長 宮澤宏和さんの耕し方 2024.02.15

車やPC、カメラ、スマホなどの電子機器は、今や人々の生活になくてはならないものになっている。これらの機材の部品に扱われているのが、アルミナ、ムライトなどに代表される、“セラミックス”と呼ばれる素材(※1)。なかでも、国内最大規模のセラミックス素材の製造量を誇る企業が、塩尻市宗賀地区に本社を構える「株式会社レゾナック・セラミックス(以下、レゾナック・セラミックス)」だ。

面積はおおよそ10万坪、東京ドーム約7.5個分に相当するという塩尻工場の敷地に足を踏み入れると、まるで小さなまちに降り立ったような錯覚を起こす。従業員は150名程度。その他、関係企業の従業員が150名程度と、合計約300人が敷地内で働いている。

長野県塩尻市宗賀地区に佇む「レゾナック・セラミックス」の建物群(写真中央)。敷地内には、工場のほかに社員寮やレクリエーション施設なども完備している(写真提供:宮澤さん)


2022年で創業から90周年を迎えた同社は、2023年、親会社の「昭和電工」が半導体事業などを行う「日立化成」と合併し、「レゾナック」と社名変更したことで、それまでの「昭和電工セラミックス」から「レゾナック・セラミックス」に社名を変え、組織としても新たなフェーズに差し掛かっているという。

国内のセラミックス素材の産業を牽引する企業であり、塩尻市に根差した地域企業でもある「レゾナック・セラミックス」とは一体どんな会社なのか。そこで働く人は日々どんなことを考えているのか。そして、企業だからこそ地域に生み出せるインパクトとは何か。詳しくお話を伺うべく、工場長の宮澤宏和(みやざわひろかず)さんを訪ねた。

※1 セラミックス:アルミナ 、ムライトに代表されるもの。「レゾナック・セラミックス」では、この他にスピネル、ジルコニア、チタニア、セリア、炭化ケイ素、窒化ホウ素などを扱っている

 

現代の快適な暮らしを支える“縁の下の力持ち”

待ち合わせの時刻になると、水色のストライプの業務服に青いヘルメットという出で立ちで現れた宮澤さん。取材陣もヘルメット、ゴーグルなどを装着し、製造現場を見学させていただいた


「『レゾナック・セラミックス』は、電気化学技術を活用して、さまざまなセラミックス素材の製品を製造しています。国内で稼働している工場は塩尻、富山、横浜の3箇所で、工場によって扱っているセラミックスの種類が異なり、塩尻工場では主にアルミナやジルコニア、炭化ケイ素、窒化ホウ素を主原料とした製品を製造しています」

工場の建屋内では、その日の朝に炉から取り出されたという加工中の製品が並べられていた。赤みがかった色が、温度の高さを物語っている。

その日の朝に電融技術で製造されたというインゴットはまだ熱を持っていた。工場の電気炉は夜間に運転しており、夜9時半から朝方にかけて毎日製造されるインゴットは15トン程度となる


「ここでは、紙やすりの表面についている粒(つぶ)や、金属を削る砥石などに用いられる研削材と呼ばれるものをつくっています。セラミックスの融点は2200℃〜3200℃と非常に高いのですが、電融(※2)と呼ばれる技術を使って溶かします。その後は取鍋に移し、冷やしてインゴットとして固まったものを粉砕します。最終的にはJIS規格で決められた粒度に整え、お客さまに出荷していきます」

炉の中には3本の大きな電極があり、その間にアークを発生させて熱を出す工程は工事現場などでしばしばみられる溶接の原理と同様だ。電気炉では流し込んだセラミックスを電気から生み出した熱で溶かして原料であるアルミナからインゴットというものにする


もう一つ、電融以外のやり方でつくる研削材もある。

「重研削砥石(じゅうけんさくといし)の原料になります。こちらは、セラミックスを0.5ミクロンまで細かく粉砕し、そこに水と粘結剤の役割を担うバインダーを入れて混ぜたのち、うどんのようににゅるにゅると押し出して、1800℃くらいの高温で焼き固めてつくります。鉄鋼などの生産の過程では金属のなかの添加物が表面に浮き出たり、工程の中で製品に傷がついたりすることがあるため、表面を綺麗に削るものとして、重宝されています」

これ以外にも、「レゾナック・セラミックス」では電気を熱に変えて加工する技術を発展させてきたことで、多数のセラミックス製品を製造している。例えば、旋盤やフライス盤などの金属を加工するための工作機械の刃物につける焼結体。耐火レンガや半導体材料を焼成するための焼成釜道具に使用される電融機能材。送電線の電気絶縁碍子(がいし)などに使用される絶縁フィラー材。酸素センサーの保護被膜などに使用される溶射材。さらに、半導体の放熱に使われる放熱フィラー材などがある。

これらの製品は、最終的には自動車や、半導体や電子デバイス、建設分野など、あらゆるところで活用されている。普段の生活のなかでは、あまり目にしないところではあるかもしれないが、「レゾナック・セラミックス」は人々の快適な暮らしを支えている“縁の下の力持ち”的な企業だといっても過言ではない。

※2 電融(でんゆう)とは、3相交流アーク炉で溶融物に電流を印加し、これによって発生する電気抵抗熱、いわゆるジュール熱で溶解する技術のことを指す。

 

塩尻の自然資源の恩恵を受けて発展した企業

「レゾナック・セラミックス」は、どのようにして生まれたのか。その成り立ちや歴史について、宮澤さんに伺った。

「『レゾナック』の前身となる『昭和電工』は、『昭和肥料』と『日本電気工業』が合併してできた会社でした。さらに遡りますと、『日本電気工業』の前身は、『日本沃度』という会社でした。『日本沃度』が『諏訪電気工業』を買収したのが1932年で、塩尻事業所としては、この時を事業所の創立年としています」

敷地内に残る「研削材発祥の地」と書かれた石碑は、会社のフロンティア精神を象徴している


「レゾナック・セラミックス」は電気化学技術を応用して、ものづくりを行う会社だ。そうした事業を行うために必須となるのは、豊富な電力と水が供給できるという環境的、かつ地理的な要件が満たされていることだという。

「『レゾナック・セラミックス』は、新島々駅のすぐ隣にある赤松という地域に「赤松発電所」をもっています。赤松発電所では、北アルプスの槍ヶ岳を源流とする梓川の水を使って水力発電をしています(※3)。また、製造工程で熱を出す時には、必ず冷却をしなければならないため、大量の水が必要となります。塩尻は地下水が豊富で、交通の要衝ということもあり、この地で電気化学工業が栄えたのだと思います」

1932年の創業当時、工場で石灰窒素肥料の原料に使用されるカーバイドを製造する様子(写真提供:宮澤さん)

今から50年ほど前はセラミックス素材産業では世界でナンバーワンの生産力を持つ工場として、世界にその名を馳せていたという塩尻工場。その後、国内の人件費の高騰や電気料金の高騰の影響を受け、以前と比べると規模は縮小傾向にあるというが、セラミックス素材製品を総合的に製造する企業としては依然、国内最大規模かつ、唯一の企業として、国内のセラミックス産業を牽引している。

そうした企業の成り立ちや営みの姿に魅力を感じて入社した社員のひとりが、現在塩尻事業所長兼工場長であり、「塩尻に強い愛着がある」と語る宮澤さんだ。

※3 発電に使った水は、その後農業用水として活用されており、安曇野市、松本市にまたが約6,300戸の農家に供給されている

 


「石油が採れなくなったら……」代替エネルギーの発明を夢見た少年時代

塩尻市の広丘吉田地区出身の宮澤さん。大学に進学するまで、塩尻で伸び伸びと育ったという。旧「昭和電工」という会社は電気化学に端を発した総合化学会社だったが、そもそも宮澤さんが化学分野に興味を持ったきっかけは、小学生時代に遡る。

「社会科の授業で、日本はエネルギー資源のない国であること、そしてその当時の時点での石油の可採年数が残り50年くらいだと教わったんです。当時は僕もまだ10歳とかでしたから、自分が60歳になった時に石油がなくなってしまったら、『車は動かないし、暖房もつかない、電気も使えないかもしれない。どうするんだろう』と不安に思っているときに、『そうか、石油に代わるエネルギーのようなものを自分が発明すれば、世の中の役に立つんじゃないか』と考えたんですね。それで、化学の道を目指すことにしました」

「今話すと真面目な学生のように聞こえますが、高校時代などはかなりやんちゃしていました」と、楽しそうに振り返る宮澤さん


大学では資源化学を専攻した宮澤さん。卒業後は、「自分のスキルや経験を地元で活かしたい」と、塩尻に工場があり、自らの専門性が活かせる環境があった「昭和電工」を就職先に選んだという。

「最初の赴任先は、セラミックスの原料の一つであるアルミナを主に扱う横浜工場でした。そこで10年ほど勤務したのち、福島県にあった子会社に3年ほど出向しました。配属されたのは20人ほどしかいない小規模な会社でしたが、非常に勢いがあり、3年も経たないうちに売り上げが数倍になりました。本社からの出向者が2人しかいなかったこともあり、原料の調達から製品開発、製造現場の管理、品質保証、増産設備の建設、最後は製品の営業をするところまで、1人で6役ほどを掛け持ちしていましたね。急成長する会社の中でたくさんの経験をさせていただいたのが、工場長になった今でも活きていると思います」

敷地内の展示館では、「レゾナック・セラミックス」で扱うさまざまなセラミックスの原料から生成されたインゴットが展示されている

その後、東南アジアの工場建設のプロジェクトの立ち上げに関わったりと、6年ほどの海外経験を挟み、2009年からはいよいよ塩尻事業所に配属。2022年に事業所長兼塩尻工場長に任命された宮澤さんは、日々、何を思い、業務に当たっているのだろうか。

「個人的な目標としては、“日本でアルミナといったら宮澤”といわれるくらい、セラミックス原料の一つであるアルミナについて極めたい」という、宮澤さん。工場長という役職に就いたことで、以前と比べて原料であるアルミナの産出国(※4)などをなかなか訪問することができないというが、最新の研究事例を参照したり技術で特許を取得するなど、常に知識を最新の状態にアップデートすることを怠らない。


「工場長としては、『従業員全員が明るく楽しく仕事できる』ことを最優先に掲げています。工場としての利益をあげるのは企業として当たり前のことですが、それはなぜかと考えれば、企業としての活動が社会全体の持続可能性につながるものだからです。自分たちの製品が便利で豊かな生活に寄与し、売り上げを伸ばして利益を上げて、会社そのものを大きくしていく。さらにそこからどんな社会貢献ができるかを考えるというのが、工場長である自分の役割だと思っています。従業員もこの地域で暮らしている人が圧倒的に多いです。得た利益を地域に還元していくような好循環を生み出していくことができれば、働く人も地域の人も、明るく楽しく幸せでいることができると考えています」

※4 産出国は主に赤道に近いオーストラリア、インドネシア、インド、ギニア、ブラジル、中国など。アルミナの含有率が40%程度のボーキサイトを粉砕後、苛性ソーダでアルミナ分を抽出し、析出によって水酸化アルミニウムを得る。これを焼成するとアルミナに変わる。この状態では結晶サイズが小さいため、塩尻工場での製造工程を経て大きくしていく

 

これまでに得た自分のスキルや知識を世の中に惜しみなく提供する

塩尻工場の工場長となった宮澤さんが目指しているのは、企業と地域の発展が両立する未来だ。自分が生まれ育った塩尻市に何ができるかを考え続けている宮澤さんの、地元愛の強さはどこからきているのだろうか。

宮澤さんが幼少期を過ごした昭和40年代の塩尻市の写真(写真提供:塩尻市)


「親の教育方針もあって、小さな頃からモノを大切にして無駄遣いをしないこと、何事も自分の力で人生を切り開いていくことが大事だと教わって育ちました。そのため、学生時代も親からの仕送りは一切なし。それでも私が大学までいくことができた理由は、ひとえに公立の教育機関があったからなんです。これって税金なくしては通うことができないですよね。誰かが払って下さった税金によって、私は学校にいくことができたし、ここまで進んでくることができた。だからこそ、私を育ててくれた塩尻市を大切に思う気持ちがあるのだと思います」

自分の故郷である塩尻を大事にする理由は、小さな頃から「自分は何のために生まれてきたのか」と、常に自問自答してきたという宮澤さんの生まれもった性質も関係しているのかもしれない。なぜなら、自分の根源的な存在理由を突き詰めることは、今の自分を形づくったものたちの存在に気づくことでもあるからだ。

入社後に出張で訪れた途上国では、貧しいなかでもたくましく生活する人々の姿や、こどもたちに教育が必要なことを改めて意識し、自らの人生を振り返るきっかけになったという


「考え続けるなかでたどり着いた一つの結論は、自分が生まれてきた意義や与えられた使命というのは、自分がこれまでの人生の中で得たスキルや知識を世の中に惜しみなく提供することだということです。例えば特許を書いて会社の利益に貢献するということは、自分の発明したものが世の中で必要とされているからこそ、その特許を使った製品が売れるということでもあります。そういう時は自分の知見によって世の中の誰かの役に立てているという感触がすごくありますし、やりがいを感じますね」

エネルギーを発明したかった少年時代の夢も、セラミックスをつくることも、地元塩尻に貢献することも、宮澤さんの中ではつながっている。全ては自分の人生を形成しているものや、暮らしを成り立たせてくれているものを大切にしながら、自らが生み出すことができる価値を世の中に還元していく活動の一部なのだ。

 

地域の仲間と取り組む、塩尻のためにできること

工場長就任から3年目に差し掛かろうというタイミングで、最近嬉しい変化があったという宮澤さん。地域の中で塩尻のためにどんなことができそうか、ざっくばらんに語り合える仲間たちとの出会いだ。

43年会の仲間たちとの写真。「43年会の活動を通して、まだまだ伝えきれていない塩尻の魅力を、多くの人に知ってもらいたい」と、語る宮澤さん(写真提供:宮澤さん)


「昭和43年生まれで、塩尻市で働いている同世代の人たちとの“43年会”というのがあって。市役所や地銀、商工会議所や市内事業者など、なかなか多様な属性の面白い人たちが集まっているんですよ。みんなで一丸となって塩尻のためにできることを少しずつ形にしていきたいと考えています」

宮澤さんにとって43年会のつながりは、業種を越えて共感し合い、塩尻を良くしていこうと一緒に何かをやっていくことのできる仲間とのつながりでもある。ところが、工場長には任期があり、総合職である以上は異動の可能性もあるそうだ。

「塩尻で生まれて、塩尻で育って。やっぱりこの地域に思い入れがあるので会社には『このまま置いておいていただいても結構です』と伝えているんですけどね」と、はにかむ宮澤さん。

歩道を渡る時には毎回指差し確認。敷地内に掲示された「凡事徹底」のスローガンには「ルールや当たり前のことを徹底し、事故を未然に防ぐ」という意志が込められている


インタビュー後、すれ違う従業員と「ご安全に」と声をかけあい業務に戻っていく宮澤さんの背中を見ながら、改めて企業が地域に生み出すインパクトについて考えていた。

特に、規模が大きな組織であればあるほど、そこで働く人たちは自分の仕事がどのように世の中に影響しているのかが見えづらいこともあるだろう。しかし自分の身の回りのあらゆる物や事のルーツを遡っていくと、その過程には想像する以上にたくさんの人が関わり、自分の暮らしを成り立たせていることに気づく。そして、自分もそのうちのひとりである可能性もある。

自分が与えられた使命や達成したいことを一人ひとりが考え、少しずつ形にしていく。それが誰かの生活を楽にし、結果として企業の利益につながる。その利益が地域に還元される。持続的かつ本質的な企業の地域貢献とは、個人の想いから出発する、絶え間ない価値の循環の中にこそ実現されるものなのかもしれない。

 

取材:2023年12月

text:岩井美咲 photo:五味貴志、本人提供

edit:今井斐子、近藤沙紀

塩尻耕人たち