伝統と現代のあわいを見つめ、木曽漆器を変革し続ける

うるし工房石本玉水 漆芸家 石本愛子さんの耕し方 2023.08.28

味噌汁のお椀や、旅館で食事をする際などによく見る漆器。

かつては「Japan」とも呼ばれるほど、ヨーロッパを中心に広く愛され、日本を代表する工芸品だった。(※)

そして、そんな漆器の国内有数の産地が、ここ塩尻の木曽平沢にもある。

今回取材したのは、木曽平沢で50年以上にわたって漆芸家として活躍されてきた石本愛子さん。愛子さんは、2019年の天皇即位を記念して贈られる献上品の漆器を長野県民の代表として製作したり、2022年には長年にわたってその道一筋で文化芸術活動に取り組まれた人物が天皇陛下より表彰される、「黄綬褒章」を受賞されるなど、まさに県内外で知られる漆芸家だ。

そんな愛子さんも、もともとは木曽平沢の生まれでも、漆芸家の家系でもなく、縁あってこの土地と出会い、全くの初心者からキャリアをスタートさせたという。しかし、外からやってきた初心者だったからこそ、漆器の技術をあえて使い手に公開する漆芸教室や、当時は珍しかった漆器ギャラリーをオープンしたり、独自の新技法を発明するなど、木曽漆器という伝統工芸をアップデートしていくような新たな挑戦にいくつも取り組んできた。

「伝承」と「伝統」は違うと考える愛子さんは、「昔に比べて傍に追いやられてしまったけれど、現代の暮らしの中に居場所がある漆器をつくりたい」と語る。

伝統と現代の間で揺れ動きながら、日本人の暮らしの中に漆器がある日常を取り戻そうと奔走する、愛子さんの半生を伺った。

 

現在はJapanese lacquerという呼び名が一般的


アイススケーターから漆器職人の道へ

愛子さんの生まれは長野県池田町。兼業農家の家系で育ち、高校生までアイススケート一本で、インターハイに出場するほどの実力だった。そのため、大学からは何校も推薦をもらっていたが、もともと気管支が弱く、長くアイススケートをやっていくイメージはなかったという。そこで、かねてから関心のあったものづくりを仕事にしたいと、工芸品をつくる職人を志そうとしたが、大学に行ってほしい父と大喧嘩。

「父は、“貧すれば鈍する”という教えだったので、作品を作るだけでなく、ちゃんと売れて食べていけなければダメだという信念があったんですね。せめて職人を目指すなら、作ったものを販売する仕組みが整っている産地がいいと。当時は“なにを言ってんだこの頑固ジジイ!”って大喧嘩しましたけど、いま思うと、とても真っ当なアドバイスでしたね」

そんなやりとりの末に、全国の手工芸を見てまわることにした愛子さん。その中で、木曽平沢にも訪れ、龍門堂の作業現場をのぞく機会に恵まれた。それがその後、50年の人生を大きく変える衝撃的な出会いになった。

「私がお邪魔した時は、漆器の製作工程の中でも、“沈金”と呼ばれる作業だったんです。漆の表面を彫り込んだところにパアッと金を蒔いていて、その時の光景が本当に美しくて。“こんなに綺麗なんだ!”って感動しちゃったんです。漆器職人は分業制で、沈金以外にもいろんな過程や職種があったんだけど、“沈金をやろう”って」

その瞬間に、心が決まり、沈金の職人になるため龍門堂の扉を叩くことに。偶然のようで必然の出会いだった。

当時の漆器業界は、まだまだ男社会で女性が職人として漆器をつくるのはかなり珍しかったというが、龍門堂は女性でも男性でもやりたいと思うことをやってもらえばよいという柔軟な考え方だったため、愛子さんも職人の見習いとして勤めることになったという。

そうして木曽平沢での職人人生が始まり、2年が経ったころ、若手職人育成のため木曽高等漆芸学院が開講し、その1期生として本格的に沈金を学ぶことになる。そこでたまたま同じ1期生だったのが、今の旦那さんの、石本則男(のりお)さんだった。則男さんの家業である「うるし工房石本玉水」も沈金を扱っていたため、結婚を機に転職した。

愛子さんの夫・則男さんが手がけた沈金の作品


漆芸・沈金教室を開いて気づいた、漆器と現代の暮らしとの「ギャップ」

愛子さんが職人になりたての頃は日本がバブル経済の真っ只中。出せばなんでも売れると言うほどの好景気で、木曽平沢では多くの職人が働き、かなりの盛況だった。しかし、バブルがはじけたことに加えて、日本人のライフスタイルが戦後以降にかけてどんどんと欧米化していったこともあり、漆器を日常の生活の中で使う日本人はどんどんと減っていってしまったという。

ちょうどその頃、愛子さんも子育てがひと段落し、ただ頼まれて漆器をつくることへの違和感が出始め、新しいことに取り組みたいという気持ちが芽生えていた。

「産地って、漆器の使い手と離れているから、作り手と使い手の間で食い違いが起きているんじゃないかと思ったんです。それに、漆器の良さを深く理解してくれる人を増やしたいっていう思いもあって、職人以外のことをやろうと思った時に、漆芸、沈金の教室を開くことにしたんです」

当時は、漆芸教室はほとんど事例がなく、同業者からは「職人だけが持つ技術を公開してしまうなんて」と、反対する人もいたという。

しかし、愛子さんは「それでも技術はオープンにしていくべき」という信念を貫き、教室を開校。そこで生活者と交流する機会を持ったことが、愛子さんの漆芸家としての一つの転機になった。愛子さんいわく、「教えているつもりで教えられていることがたくさんあった」のだという。

特に大きな気づきだったのは、日本の暮らしが急速に欧米化する中で、伝統的な漆器が日常から浮いた存在になっていたということ。

「現代の暮らしがいかにこれまでの漆器と合わないかがよく分かりました。漆器って、元々は電気もない時代にろうそくの灯りで見た時に、ピッと黒光りして美しく見えるように作られているんです。“黒光り”という言葉はまさに漆器から来ています。でも、日本人の住まいが欧米化して白い壁、蛍光灯、大きな窓で明るいことが当たり前の現代では、漆器の光沢感がギラギラと見えて浮いてしまうんですよね」

木曽平沢は、谷崎潤一郎が著した「陰翳礼讃」のように、昔ながらの陰影のある暮らしが残っていたがために、現代の暮らしと乖離していることに気づけなかったのだという。こうして、「現代の暮らしの中でも居場所がある漆器とは何か」ということが愛子さんのテーマになっていく。

それから、自分が作った漆器がどんな生活空間の中で使われるのかをイメージするために、当時は珍しかったギャラリースペースを30年前にいち早く開設。白い壁や明るい電気など現代的な部屋を再現し、時代にマッチする漆器を考えた。

幾重もの試行錯誤ののちに生まれたのは、これまでの漆器とは真逆の表現。光沢を出して光らせるのではなく、むしろ光沢を抑えて光を吸収するような淡い質感の漆器だった。

そして愛子さんが独自に発明したのが「伏漆彩沈金(ふししっさいちんきん)」という技法。これこそが、愛子さんが現代の暮らしの中にも、居場所がある漆器を考え抜いて出した答えの一つだった。

金を前面に塗りつけて、煌びやかさを表現するのではなく、明るさの中で人の目を惹きつけるように色粉を漆の下に潜らせる伏漆彩沈金は、現代人の心を掴み、以来、愛子さんの代表的な作品になった。


「伝承」と「伝統」はちがう。伝統工芸はずっと発展途上

私たちが伝統工芸品と聞くと、長い歴史の中で培われた絶対的な型がある「完成品」で、変化させてはいけないという印象を持つが、これまでのやり方にとらわれずに、自身の信念で次々に新しい取り組みをはじめていく愛子さんを見ているとそんな固定的なイメージがだんだんと揺らいでいく。

「伝統工芸品と言っても常に発展途上なんですよ。いつも最高のものをつくろうと一生懸命になるけど、あとで作品を見ると“もっとこうできたな”って改善点がかならず目につく。そういう試行錯誤の繰り返しの中で伝統工芸品も少しずつ変わっていくんです」

常に新しいやり方を打ち出していく愛子さんに対して、「これは本当に漆器なのか?」と疑問を投げかける人もいたという。「そういう批評もあっていい」と肯定しながら、愛子さんの思いを聞かせてくれた。

「私は“伝承”と“伝統”は全く違うものだと思っているんです。伝承は、昔からの技術やスタイルをそのまま守ること。伝統は、これまで続いてきた技術や哲学は引き継ぎながらも、時代に寄り添うように、変化させていく、統べる作業が必要になります。伝統工芸品といっても、変わってきたからこそ今に残っているんだと思うんです」

伝統を守ることと、現代の暮らしに寄り添うこと。時に相反する「あわい」を揺れ動きながら、悩み、進み続ける愛子さんの苦労が垣間見える。

「とはいっても、“こうやって変えてやろう”って変に欲が出ると大体失敗するんですけどね。モノって正直でね。“より良くしよう”って意図はするんだけど、意図的にやりすぎるといやらしさが伝わる。今でも塩梅はわからないねえ」


木曽平沢は、木曽漆器は、「真ん中」であり続けたい

木曽漆器をアップデートし続ける愛子さんは、漆芸家としての仕事も忙しい中、必ず時間を作って取り組んでいることがもう一つある。

自身も一期生として入学し、愛子さんの基礎を形作った漆芸学院の講師の仕事だ。木曽漆器が未来に繋がっていくための若手人材の育成や、他にも小学生向けの漆器教育など、伝統の継承に力を入れている。

「やっぱり技術を守り伝えていかないといけないと思うんです。それが伝統を守ることにも、木曽平沢という産地を守ることにも繋がるから」

そんな思いの根っこには木曽平沢という産地への深い愛があった。

「やっぱり私はこの木曽平沢が好きなんですよ。奈良井宿のように華やかな観光地ではないけれど、穏やかな暮らしの中に文化的な美しさがあるし、みんな素晴らしい技術を持ちながら驕らずに自然体で。現代の日本が失いかけている美しさがここには今も息づいているなって」

ハレの日のような華美な美しさではなく、ケの日のような、何気ない日常の中の美しさを大切にする文化が、たしかにこの町にはある。それは木曽漆器が高級品でも、安価品でもなく、「中間」の存在だからなのかもしれない。

「ここの職人はみんな、“真ん中でありたい”って思っていると思います。輪島塗りのような高級路線もいいし、安くて手頃な漆器もいいけれど、わたしたちがつくりたいのは、確かな技術でつくられ、生活の中で普通に使えて、美しい漆器なんです」

かつて民藝運動の柳宗悦が、実用性に優れ、かつ美しい道具のことを「用の美」と定義したように、木曽漆器はまさに用の美そのものだ。

伝統にも、現代にも偏りすぎずに、実用性だけ、デザイン性だけにこだわるわけでもなく、ちょうど良い真ん中を探り続ける愛子さんと、木曽平沢。

最後に愛子さんは次世代へのメッセージとしてこんな言葉を残してくれた。

「漆器は“Japan”と呼ばれるほど、日本を代表する伝統工芸品。だからこそ、若い世代がもっと木曽漆器に誇りを持てるようにしていきたいですよね。できることは小さいけれど、いつか波紋になっていくと信じてやっています」

日本の真ん中にある産地・木曽平沢から、暮らしの真ん中に居場所が持てる漆器づくりはこれからも続いていく。


取材:2023年6月

text:北埜航太 photo:遠藤愛弓

edit:今井斐子、近藤沙紀

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