塩尻唯一の映画館として、映画の文化を発信し続けたい

東座 代表 合木こずえさんの耕し方 2017.2.2

東座の前身は芝居小屋

昨年10月30日、塩尻唯一の映画館「東座」は150人を超える観客の熱気で溢れていた。この日、映画『金メダル男』で監督・脚本・主演を務めたお笑いコンビ「ウッチャンナンチャン」の内村光良さんが舞台あいさつに訪れたのだ。
『金メダル男』の主人公は塩尻出身という設定で、東座も映画に登場する。それは単純に昭和の気配を色濃く残すノスタルジックな映画館を撮影に利用したかったから、ではない。内村さんは、20年ほど前に放送された深夜のドキュメンタリー番組で東座と東座の代表、合木こずえさんの存在を知って興味を持ち、ひとりで東座を訪れ、映画を観たことがあった。その縁がつながってのことだった。

ところで、20年前、すでに人気のある芸能人だった内村さんがひとりで塩尻に足を向けるほど見入った深夜のドキュメンタリー番組とは、どんな内容だったのか。
少し、東座の歴史を紐解いてみよう。


東座は1922年、現在と同じ場所に芝居小屋として建てられた。運営者が移り変わるなかで、1949年、当時の運営会社に勤めていた合木茂夫さんが、支配人に就任。その後に独立して、東座は家族経営の映画館になった。
現代表のこずえさんが生まれたのは、1959年。当時は映画が人気の娯楽で、東座も行列ができるほど忙しく、こずえさんは東座で育てられた。
「私はもうハイハイするくらいの時から映画館にいましたから。パパやママと言うより先に、石原裕次郎を指す『ゆうちゃん』と小林旭をさす『あきちゃん』という言葉を憶えたそうです(笑)」


「フロムイースト上映会」の原点

小学生時代から、放課後は映画三昧。将来の夢は浅丘ルリ子のような女優だった。
その夢を追いかけて、高校卒業後には東京の大学の演劇学科に入学した。在学中、テレビ番組やCMに出る機会も得たそうだ。
しかし、どうしても芸能界独特の空気に馴染めず、現場から離れて海外のテレビ局の代理店を務める映像関係の企業に就職。イチから英語を学び、海外出張を任されるまでになった。

転機が訪れたのは、毎日終電まで働くような日々に疲れ、13年間働いた会社を辞めて塩尻に戻った1995年。知人を通して、「東京で映像の仕事をしていたキャリアウーマンが、実家の映画館に戻って何をするのか」というテーマで、こずえさんに焦点を当てたドキュメンタリー番組が制作されることになった。
この番組をきっかけに生まれたのが、無類の映画ファンのこずえさんがセレクトした映画の上映会。それまで塩尻では観る機会のなかった単館系の映画をピックアップすることで「文化の発信地になりたい」という想いを込めて、「フロムイースト上映会」と名付けた。
番組は、こずえさんがイチから上映会を企画し、塩尻出身の監督の作品を取り上げた初めての上映会で、東座が満員の観客で埋まるというハッピーエンドで終わる。この番組を観て、内村さんは東座に足を運ぶことになるのだが、実はその後が大変だった。
当時の支配人、父の茂夫さんは「商売にならない」と猛反対。こずえさんは、「邪魔にならない時間帯にやります」と頭を下げ、貸館料を支払うという約束で、ひと月に1週間、夜8時半からの上映のみ許された。


『アンダーグラウンド』の夜

その後、観客からの要望で朝10時からの回も追加されたが、東京でもマイナーな映画にそれほど人が集まるはずもなく、フィルムを借りる費用にすら困る状況だった。
そこで再び東京に部屋を借り、フリーで映像関係の仕事を受けながら、上映会のある週だけ松本に戻る、という二拠点生活を始めた。それもまた多忙な日々ではあったが、OL時代とは比べ物にならない充実感があった。
「学生のときからずっと彷徨っていた心が、ようやく落ち着ける居場所を見つけたという気持ちでした。上映会によってラジオや新聞、テレビからも映画の仕事が来るようになり、それで上映会を維持するというサイクルもできました」。
現在まで22年間続けてきた上映会にかけるこずえさんの想いがググッと詰まったエピソードがある。
カンヌ国際映画祭でパルム・ドール(最高賞)を受賞したエミール・クストリッツア監督の『アンダーグラウンド』という映画を「学生さんに観てもらいたい」と思い立ったこずえさんは、松本の予備校で講師をしていた同級生に声をかけた。
しかし、上映時間170分の大作で、20時半から上映すると松本への最終電車に間に合わない。そこでこずえさんは、「観に来てくれた学生全員を自宅まで送り届ける」と約束。1996年の年末、凍えるほど寒い夜に上映会を開いた後、義理の弟と手分けして深夜まで学生を送迎してまわった。


地元出身の少年の成長を見守りながら

2011年に茂夫さんが死去し、東座の代表に就いてからは上映会以外の通常業務も手掛けるようになったこずえさん。家族経営の東座で、毎日のようにチケット売り場に立ち、お客さんと言葉を交わす。映画館には定休日がないが、合間を縫って月に2回は上京し、1日に映画を4本はしごする。
まさに映画とともに生きてきたこずえさんは、ハリウッド大作も無名の傑作も、そしてかつて経営危機に陥ったとき、茂夫さんが苦渋の決断で上映を始めたピンク映画も「まじめに作っている映画は、応援したい」と語る。こうしてこずえさんが撒いてきた種は、少しずつ、しかし着実に芽吹いている。

数年前、地元の中学校の職業体験で東座にきた少年がいた。「映画監督になりたい」という少年の熱意に胸を打たれたこずえさんは、自分が持つ全ての知識と情報を伝えた。それから交流は続き、東京で知人の映画監督の講演がある時には少年を連れて行って紹介した。
少年はこずえさんが推した立教大学の映像身体学科に入学。映画館でアルバイトをしながら、映画を学んだ。その間に映画の宣伝に興味が移ったそうで、卒業を前に大手広告会社の内定を得た少年は、「3年間、社会人として経験を積んだ後、映画の宣伝会社に転職をする」と東座まで報告に来たそうだ。
中学生の頃から応援してきた地元の若者が宣伝を担当した映画を、東座で流す。
こずえさんは、その日を心待ちにしている。

 


取材:2017年1月

文:川内イオ/写真:望月葉子

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