塩尻市には地元だけでなく、周辺市町村からも広く子どもたちが集まってくる保育園がある。2012年に洗馬上小曽部の豊かな自然環境の中で開園した自然ランド・バンバンだ。オーナーであり園長の寺島明子さんは、安曇野市の公立幼稚園、保育園で保育士や園長として17年間勤務した後にアメリカで学び、長野県福祉大学校や飯田女子短期大学・松本短期大学で後進の指導に当たってきた幼児教育の専門家だ。
寺島さんが廃園になった旧小曽部保育園を買い取って作ったバンバンの特徴は、なんといっても「近自然的環境保育」。雨の日も風の日も雪の日も毎日、子どもたちを外に連れ出して、自然の中で3時間を過ごす。「幼児教育には自然保育以外にないという結論に達しました。ここが私の集大成です」と語る寺島さんの歩みは、学び続けることの連続だった。その道のりを振り返りながら、子どもたちへの想いを尋ねた。
長野県安曇野市(明科町)で生まれ育った寺島さんが幼児教育に興味を持ったのは、社会人になってからだった。高校を卒業してから入社したセイコーの関連会社で、当初は「時計の設計をする仕事」と聞いていたのに、ゼンマイの検査をする部署に配属された。異動を希望しても叶わないまま時が過ぎ、「この仕事で終わるのはイヤだ」と思っていた3年目、たまたま松本短大に幼児保育学科が開設されることを知った。
「今思えば当たり前なんですけど、みんな会社の上司に思ったことを言わないでしょう。それがどうしてなのか疑問に思っていたんです。子どもたちの教育に携わって、そういう世の中を変えていきたいという想いがありました」
3年で退社し、松本短大に進学。そこで幼児教育について学ぶうちに「人間の成長の面白さ」を感じ、卒業後、公立幼稚園で働き始めた。ベテラン職員が多いなか、寺島さんは「経験だけがすべてじゃない。体ごと子どもと遊ぶことが一番だ」と毎日、走り回りながら全力で子どもたちと向き合った。
公務員としていくつかの保育園、幼稚園を異動しながら、常に頭にあったのは「いつか、障がい児を預かる施設を作りたい」という想いだった。
「松本短大で学んでいる時、安曇野にある障がい者支援施設アルプス学園の実習に行きました。そこで職員の方が障がいの重い子どもたちのケアをしている姿を見た時に、自分はこれまで曖昧な生き方をしてきたけど、将来は障がいを持つ人たちのために尽くしたいと感じたんです。そのために、お金を貯めて施設を作ろうと思っていました」
施設を作るにはお金も必要だが、運営するための知識も必要だ。30歳になった頃、松本大学松商短期大学部の2部に入学し、仕事が終わった後の夜間、2年にわたって経済の勉強をした。幼児教育の現場では、健常児と障がい児を一緒のクラスで保育する統合保育に携わり、先進的な取り組みとして話題になった。
大きな転機になったのは、41歳の時に行ったアメリカ留学。その3年前から保育園の園長を務めていた寺島さんは、総務課長と町長に「アメリカで自閉症について学びたい」と訴えた。休職の許可を得るのは簡単ではなかったが、なんとか説得し、ひとり渡米。自閉症患者の社会復帰について研究しているノースカロライナ大学のエリック・ショプラー教授のもとで1年間学んだ。
帰国後は、教育委員会などで勤務。この時にさらなる学びの必要性を感じ、44歳の時、通信制の大学に入学して2年間学ぶと、大学院進学を決意。大学の教員を続けながら大学院に入り、修士号を取得した時には55歳になっていた。
21歳の時に松本短大に入学してから29年間で、アメリカも含めると5つの大学に通った寺島さん。それだけ学びを更新し積み重ねると、見えてくる景色も変化するのだろうか?
「そうですね。既存の知識、経験ってだいたい10年ぐらいで飽和状態になるんです。学び直すことによって、その先の新しい道筋が見えたり気付きがあるんですよね。新しいことを学ぶだけじゃなくて、基本原則に立ち返り、再確認するということでもあります。例えば年齢による子どもの発達の違いに関しても、若い時はざっくり見ていたと思いますが、論文などを書くことでより解像度高く理解することができるようになりました」
大学卒業後、松本短大からのオファーを受け、幼児保育学科の専任講師に就任。数年後、准教授になった寺島さんは、長野県福祉大学校でも週に1度講義するようになった。若者たちに指導をすることにやりがいを感じていた。
「学生に教えることによって、自分自身が見えなかったものが見えてきたり、行き詰まったように感じていたことも道が拓けたりしました」
寺島さんはほかにも、松本にある福祉型障がい児入所施設・信濃学園で月に1度、アメリカで学んだ「言葉を絵にするティーチプログラム」を指導。さらに、保育園、児童養護施設、知的障がい者施設に関係する第三者評価にも携わった。
幼児教育の専門家として慌ただしい日々を送っていた2010年10月、松本短大で受け持ったゼミの卒業生から連絡が入る。
「塩尻の保育園で働いている教え子から、『新聞で旧小曽部保育園の施設が売りに出されているってよ。先生、施設をやりたいって言ってたから』と」
寺島さんは大学で教鞭をとりながら、生徒たちに「いつか、障がい児を預かる施設を作りたい」と話していた。そのことを覚えていた教え子からの情報に、心が動いた。
障がい者施設を作りたいと考えてきたが、既に世の中は脱施設化の方向に向かっている。そこで「障がい児も受け入れる統合保育を再びやってみようか」と考えた。
わずか数日後、小曽部保育園の施設の買い取りに名乗りを上げ、4ヶ月後にその権利を得ることができた。
こうして2012年4月、自然ランド・バンバンが開園した。前述したように、この保育園は長年、幼児教育の現場で働き、また国内外で学び、研究してきた寺島さんにとって集大成の場だ。
「シュタイナーやモンテッソーリなどいろいろな保育園のやり方があるんですけれども、子どもが育つにはこれしかないということで、自然保育を始めました。自然のなかで感性を磨くことで、将来ぶれずに、自分自身のなかに自分を落とし込んでいける力が育つと確信しています」と。
なぜ自然保育が有効なのだろうか? 寺島さんは「自然に合わせること」の重要性を説く。
「例えば、積み木遊びって自分が操作すれば形が変わりますよね。でも、自分が思い通りに操作できることって、世の中にあまりないんですよ。一方で、自然のなかにいると毎日変わる天気や環境に合わせないと遊べません。いつも自然の様子を見てこちらが自然に合わせる必要があります。毎日自然のなかで過ごすことで、環境に自分を合わせながらも、環境にぶれることなく主体性を持って遊ぶようになります。例えば、学校や社会に出た時に、ごく自然に相手に合わせながら自分らしく活動できる人間になれると思っています」
ほかにも感性を解き放つためにピアノの曲に合わせて他の生き物や物体になりきる身体表現や、他者との関わり方を育成するごっこ遊び、創造力や言語力を養う絵本と紙芝居を重視したバンバン。初年度は6人の子どもが入園した。
ただ、そこに寺島さんの姿はなかった。当初は妹ともうひとりのスタッフに運営を任せ、自分はもとの仕事を続けようと考えていたそうだ。
しかし数カ月後、妹から「ふたりでは無理だから、きちんと子どもたちを成長させるために自然ランド・バンバンの仕事をしてほしい」と訴えられる。その頃、過労気味だった寺島さんは妹の話に納得し、すべての仕事を手放して園長に就いた。
アメリカに留学する前、41歳の時以来の現場。当時と今でなにか違うところはありますか? と尋ねると、寺島さんは強く頷いた。
「昔は行事中心で運動会や劇発表の練習に一生懸命になってしまって、子どもたちの遊びや一人一人の様子をきちんと見ていなかったなと思います。ここでも七夕会やクリスマス会、生活発表もするし、歌や劇もするんですよ。でも、全員一緒に教え込むことはしません。子どもたちの状況に合わせて5〜6回、遊びながら楽しく演じるようにしています。そのおかげで、今は子どもがどう動くと楽しいのか、どう見ているのか、よくわかります。子どもが成長していく状況が手に取るように理解できます」
いつ導き、いつ黙って見守り、いつ助言するのかを見極めるためには、子どもの状況をしっかり見ることがとても大事なのだという。
自然保育の時間は、近隣の山や川に出向く。初年度に入園した子どもたちは慣れていないため、戸惑うばかりだったという。そこで寺島さんやほかのスタッフが率先して木に登り、獣道を歩いた。それを真似することでなにをしていいのか、なにをしたら危ないのか、子どもたちは身をもって知った。すると、翌年に入園した子どもたちは自然のなかで遊び慣れた先輩たちの体と言動からごく自然に学び……ということが繰り返されるようになった。
自然のなかで伸び伸びと遊ぶ子どもたちの姿を見ていて、心を揺さぶられる瞬間があるという。
「石に魚の形を描いて、それを川の流れに入れた子が、『先生見て、魚が泳いでるように見えるでしょ』って言われた時には感動しましたね。子どもたちが静かに、山のなかをたんたんと歩き自然のなかに渾然一体と溶け込んでいる時は、きっと五感で自然を感じて心が満たされつつ、ぶれない心身を自らで育てているんだろうなと思って、拍手をしたくなります」
バンバンはフリースクールとしても運営されていて、「卒園した後もバンバンに預けたい」という保護者からの要望で、小学生も受け入れている。
「小学校の低学年は教科で学ぶ糧も少ないので、本を通して学ぶことよりも全身を動かして自然の中で遊ぶことの方が子どもの成長には大切です。その結果、自らが生き抜いていく力を自らが育てていくので、その環境としての時間・仲間・空間を意図的に与えています」
小学生に算数や国語などの勉強を教えるのも、寺島さんの役割だ。ほかにも、小学校に上がった卒園児が「あけびを取って食べたい」「氷を取りに来た」などと言ってはしばしば遊びに来る。
そして、1年間に4回開催される「バンバン会」には、毎回、在園児と卒園児の家族が100人ほど集い、夏の会では園庭にテントを張って宿泊する。バンバンは子どもたちと保護者の居場所、コミュニティとしても機能しているのだ。
寺島さんは2023年4月から週1回、長野県福祉大学校で再び学生たちの前に立つことになったが、園長は続ける。「現場に戻る気はなかった」という寺島さんが、園長に就いてから12年目。今は、卒園児も含めて子どもたちの成長を見守りながら、その未来に想いを馳せている。
「バンバンに通って自然とたくさん接してきた子は、そこで培われた力を持って他者と共に生きながら、自分だけの世界感を失わず生きていくだろうなって思っています」
最近、寺島さんが心底驚いたことがある。バンバンの給湯器交換工事に来た業者の人に「寺島です」と挨拶をしたら、「え、もしかして、明科幼稚園にいた寺島先生ですか?」と聞かれたのだ。
不思議に思って話してみると、47年前に明科幼稚園に通っていたというその人は寺島さんの受け持ったクラスの教え子ではなかったのだが、「自分の担任の先生の名前は覚えていないけど、寺島先生だけは覚えている」と言われた。それが嬉しくて、寺島さんは「あの時、体ごと子どもと遊んでいたからかな」と思ったそうだ。
バンバンの子どもたちもきっと、忘れないだろう。寺島先生と一緒に山を歩き、川で遊んで過ごした日々を。
取材:2022年11月
text:編集部 photo:遠藤愛弓
edit:今井斐子、近藤沙紀