奈良井に移住した夫婦の現在地

wakamatsu 店主 山本文弥さん・山本舞さんの耕し方 2023.2.28

コンサルタントとデザイナーが開いた宿

17世紀、江戸時代の頃に宿場町として栄えた奈良井宿。明治時代以降の開発の波から逃れたことで当時のまち並みが現存するだけでなく、そこで今も人々が生活を営んでいる。

江戸情緒が息づくこのまちで2021年9月、新たな宿 花と休息「wakamatsu」がオープンした。江戸時代に建てられた屋敷の歴史と風情を大切に残しながら、心地よく過ごせるよう配慮されたこの宿を運営するのは、山本文弥さんと妻の舞さん。

夫妻はもともと東京在住で、文弥さんは楽天やリクルートでの勤務経験を持つコンサルタント、舞さんはフリーランスのデザイナーとして働いていた。生まれ故郷は静岡県と千葉県で、奈良井宿はもちろん、塩尻市にも長野県にも縁がなかったふたりがなぜ、奈良井宿で宿を始めたのだろうか?

(写真提供:wakamatsu)


「音楽の仕事」を諦めた日

文弥さんは、そのキャリアと肩書きからは想像できない意外な人生を歩んできた。中学生の時に音楽に目覚め、仲間と組んだパンクバンドのギタリストをしていた。バンド活動に明け暮れる中で「東京ならもっと楽しく音楽がやれるんじゃないか?」と思い、17歳のときに親を説得し、東京の高校に転校した。

東京の高校を卒業後、専門学校に入学して音楽に関する知識を学び、音楽関連の仕事を求めた。しかし、就職活動中にあえなく打ちのめされた。
「当時はまだ若かったから、面接の時に暑苦しく音楽についての夢を語ったらすごい勢いで突き放されました。『最初はみんなそういうことを言うけれど、お金がないとなにもできないから』みたいな。それが悲しくて、その日は泣きながら帰りました」

この出来事がきっかけで音楽業界から心が離れた文弥さんは、「なんでもいいから働くか」と就職情報誌を手に取った。その時にたまたま目についたのが、「未経験OK、IT人材育成」と書かれた求人。応募すると採用され、まさにゼロからITの知識と技術を叩き込まれた。そこでさまざまな仕事を任されるようになり、そのスキルをいかして2006年、仕事の中でご縁のできた楽天に職場をうつす。親しい仲間も増え、この時期に初めて仕事に充実感をおぼえたという。

「それまでは仕事なんて嫌々やっていて、バイトも続いたことがなかったんですけど、楽天に行ったら周りから頼りにされるようになったんですよ。自分では割と落ちぶれていると感じていたから、それが嬉しかったんですよね。それで、この仕事ちょっと楽しいかもと思うようになって、気がつけば夢中になっていました」

楽天で2年間働いた後、独立。フリーランスのエンジニアとして、ベンチャー企業のシステム開発などをサポートするようになった。同時並行で、仕事の幅を広げるためにデザイン、企画、プロデュースなどの勉強も始めた。

この頃に出会ったのが、舞さん。千葉県銚子市の故郷を離れ、東京にあるベンチャー企業でデザイナーとして働いていたそうだ。


IT業界に感じた虚しさ

文弥さんが知り合いから「新しい事業を立ち上げるから手伝ってくれないか」と誘われて、株式会社リクルートの仕事に関わり始めたのが、2013年。

最初の案件は、iPadで使える中小の飲食店や小売店向けのレジサービス「Airレジ(エアレジ)」だった。同年11月にローンチされ、2021年12月時点で61万を超えるアカウント数を誇るこのサービスの初期開発チームのひとりとして、文弥さんは企画、戦略立案のアドバイザーを務めた。
2年ほどこの仕事をした後、成果を認められてリクナビ、カーセンサー、ゼクシィ、じゃらんなど名だたるサービスに携わった。
この間に舞さんと結婚。ウェブデザインからグラフィックデザインにシフトし、フリーランスとして働くようになっていた舞さんは、少しずつ変化していく文弥さんを目の当たりにしていた。リクルートで多忙な日々を過ごし、時代に必要とされるサービスを生み出す仕事にやりがいを感じてはいたものの、進化と消費のスピードの速さに一抹の虚しさを感じていた文弥さんは、「なにか形に残るものに関わりたい」と日本文化を学び始めた。

最初は、三味線。ギタリストだったから、同じ弦楽器に手が伸びた。次に興味を持ったのが、花道。自分が好きな三味線の先生が花道家と対談した記事を読んだのがきっかけだった。

「ウェブサービスに携わっていた頃、大きなサービスに関わることの充実感はありましたが、同時に、消費の早さに対して多少の虚しさを感じていました。花は、散ってなくなっていくことすらきれいだなと思ったんですよね。決して消費されないというか。消費すらも心に残る。花道は日本古来の文化ですし、花の美しさ、儚さ、そういうことに丸ごと惹かれました」

リクルートで仕事をしながら、花道の教室に通うようになった文弥さん。その姿を見ながら、舞さんもさまざまな活動を始めていた。

「私は私で楽器を習ったり、料理教室に通ったり、ボランティア活動のお手伝いを始めたりして、お互いになにかを探していた時期ですね。私たちは田舎で育って、いい学校も出てないから、一緒にアイデンティティを模索していたのかもしれません」


奈良井宿で運命の出会い

移住を考え始めたのは、2017年頃。真剣に花道と向き合うようになった文弥さんは、自然が豊かな場所に住みたいと思うようになった。

「僕の花の先生がよく言ってたんですね。花道は花を探すところから始まる、そもそもどういう花にどうやって出会うかが大事だって。でも、東京だとどうしてもそれが難しいと感じていました。だから、もう山の近くに引っ越すしかないと思って」

舞さんは東京の生活を満喫していたが、夫の話をポジティブに捉えた。
「私も田舎出身だし、自分で畑をやったりする生活もいいなって。フリーランスのデザイナーだからどこでも仕事ができるというのもあって、特に不安は感じませんでした」

「山の近くならどこでもいい」という条件で移住先を探し始めて、舞さんがたまたまネットで目に留めたのが、空き家バンクに掲載されていた奈良井宿の家だった。その伝統的な佇まいに惹かれ、ふたりで見学に行った。その時、初めて奈良井宿に足を踏み入れ、その光景に一瞬で心を奪われた。

「不勉強で奈良井宿の存在を知らなかったので、こんなところがあるんだ、しかも人が普通に住んでいるんだっていうことに驚きました。僕は一刻も早く山の近くに引っ越したかったし、家も一目で気に入ったから、もうここにしようって」

移住の検討をして最初に見学した物件に惚れ込んだ山本夫妻は2018年、奈良井宿に引っ越してきた。

当初、文弥さんはリモートで東京の仕事を続け、舞さんも変わらずデザインの依頼を請けていた。仕事に大きな影響はなかったが、生活の変化は想像以上だった。

多様な人がいて、それぞれの生き方、考え方を受け入れる東京に慣れた夫婦は、歴史あるまちの一員として求められるさまざまなことに戸惑いやストレスを感じることもあるという。しかし、この地だからこそ得られるもの、見ることのできる景色に、すっかり魅了された。

「私は、新鮮な野菜が手に入るし、見たことがない野菜もたくさんあって、それで料理するのはすごく楽しいです。畑も始めて、近所のおじさんにお世話になりながら自分で野菜を作るのも面白いですよ」(舞さん)

「山には自然の花が溢れていて、この時期に、こんなところにこの花が咲くんだっていう素朴な発見がたくさんあります。自然の近くに身を置くことで、自分のいける花も変わりました。花道には、『野山水辺自ずからなる姿を居上にあらはす』という言葉があり、まずはそこに咲いているままの姿を表現することが美しいと言われます。そのためには咲いている姿や風景を知らないといけないので、咲き方を知ることがで生け方を知ることにもつながります。それに、野山の花は弱いものも多く、長持ちしないことが多いんです。そのぶん、ひとつひとつの花の命に真剣に向き合うようになりました」(文弥さん)

 

大切にしているのは「ゆっくり休めること」

新天地での生活に慣れ始めた頃、まちの回覧板で近所にある空き家となっている屋敷を活用するアイデアを求めていることを知った。ふたりは「せっかくこのまちにいるんだから、このまちでなにかできたらいいね」と話し合い、応募することにした。宿をやろうと考えたのは、石川県にあるふたりが大好きな宿のように、心地よい安らぎの時間とすてきな出会いが得られるような場所ができたらいいなと思ったからだ。複数の応募者の中から夫妻の案が採用され、屋敷を任された。

宿を開くにあたり、ふたりが意識したのは「基本的にはもとの面影を残す」。内装、外装ともにほとんど江戸時代に建てられた当時のままというのは奈良井宿内でも珍しく、「なにもしなくても、特別な体験になる」と感じたそうだ。だから、床や水回りなど宿として営業するうえで必要な部分にはしっかりと手を入れて、あとは見栄えを整えるにとどめた。「wakamatsu」という名前も、この建物の屋号「若松屋」から取った。

(写真提供:wakamatsu)


一日一組だけの宿にしたのは、「宿泊客がゆっくり休めること」を大切にしているから。宿のなかは照明を抑えた落ち着いた雰囲気の空間で、外界から隔てられた静けさのなかで、客人のために生けられた文弥さんの花が印象的だ。当初は料理を出さない案もあったが、舞さんの希望もあって、なるべく身体に優しい料理を出すことに決めた。

「ここに泊まった次の日には心も体も軽くなって帰ってほしくて精進料理にしました。そもそもこの地域は野菜やキノコがおいしいので、それをメインにしたかったんですよね。私たちはヴィーガンというわけではいんですけど、そういった料理があることを知ってもらえたり、1日だけでも体の変化を感じてもらえたりしたらいいなって」(舞さん)

(写真提供:wakamatsu)

(写真提供:wakamatsu)


開業してしばらくは宿業に慣れるのに必死だったが、1年が過ぎてようやく落ち着いてきて、お客さんとゆっくり話す時間も取れるようになった。そうすることで互いに打ち解け、友人のような関係になるのが嬉しいという。

舞さんの料理は好評で、料理を目当てに泊まりに来るお客さんも出てきているそうだ。文弥さんは花の教室を開いたり、東京から声がかかって都内のイベントで花を生けたりするなど、花道家としても活動の幅を広げている。

料理と花と宿。東京時代には想像もつかなかった生活のなかで、「やりたいことが明確になってきた感じはありますね」と舞さんが言うと、「そうだね。でも、ちょっとかっこ悪いことに、まだお互い自分探し中かな」と文弥さんが笑った。

奈良井宿に新しい風を吹かせるふたりは、これからも変化し続ける。その変化に合わせて「wakamatsu」も進化していくのだろう。

 

取材:2022年11月

text:編集部 photo:遠藤愛弓

edit:今井斐子、近藤沙紀

 

写真提供

wakamatsu 建物:小林志翔 料理:黒木康太

塩尻耕人たち