「塩尻にはワインとか山賊焼きとか名物がたくさんありますが、一番の魅力は人です。それはもう間違いないですね」
2003年4月、塩尻市でWebデザイン・制作、Webコンサルティングなどを手掛ける株式会社オフィスP’dj(オフィス ピー・ディー・ジェイ)を立ち上げた吉村和道代表は、そう断言する。吉村さんは諏訪出身で、塩尻とは縁もゆかりもなかった。塩尻で会社を作ったのは「諏訪と松本の中間がよかったから」という理由で、なんの思い入れもなかった。
それが今は「ほかの場所に移転するなんて、想像もしませんね」と話す。この19年間で、吉村さんになにがあったのだろうか?
「僕は学生時代からずっと、夢とかやりたいことがなかったんですよ」
東京理科大学諏訪短期大学を卒業するまで地元で過ごし、20歳で上京して就職した吉村さんだが、その頃は自分が起業するなんて夢にも思っていなかった。アルバイトから社員になった人材派遣会社を辞め、26歳で帰郷したのも、「いつまでフラフラしているんだ。いい加減に戻ってこい」と父親に言われたからだった。
諏訪で就職活動をしたところ、軒並み不採用。アピールするキャリアも特技もなく、「どうしよう……」と焦り始めたタイミングで、父親がパソコンを買ってくれた。これが転機になった。
「もともとゲームが好きだったから、ゲーム感覚でいろいろ触ってみて、『あ、こんなに面白いものがあるんだ』と驚いたんです。勉強嫌いで、それまで本を買ったこともなかった僕が、自分で初めて買った本がパソコンの本でした」
これは1998年の話で、当時はインターネット黎明期(れいめいき)。パソコン操作も本で学ぶ時代だった。それから3、4カ月、ひたすらパソコンと向き合い、思い付きで「ホームページを作ります」というホームページを作ってみた。
するとある日、一通のメールが届いた。そこには、「ホームページを作ってください」と書かれていた。まさか本当に来るとは思っていなかった仕事の依頼に舞い上がった吉村さんは、考えられないような価格で請け負った。
「今でも忘れません。4000円です(笑)。制作に何日もかかるんですが、その時はなにも考えていませんでした。依頼してくれた人の家を訪ねて4000円もらった時は、本当に嬉しかったですね。仕事をしていて、初めて自分が必要とされていると実感できた瞬間でした」
ここからとんとん拍子に……というわけにはいかなかった。その後はまったく依頼がなく、実家でパソコンをいじり続けていたら、それを知った知り合いから仕事を紹介された。
1999年、「平成の大合併」と呼ばれる市町村合併が行われていた。そのため、日本中の自治体でホームページが新設された。その仕事を受注した大企業の下請け会社からの依頼で、自治体のホームページを作る仕事だった。
「ある程度の知識があれば誰でもできる内容」だったが、吉村さんは「面白くてしょうがなかった」と振り返る。夢中で仕事をしていたら、そのうち3人分の仕事をひとりで請け負うようになった。それもまったく苦にならなかった。
自治体のホームページをひとりで何千ページも作り、気づけば4年が経っていた。その頃には「平成の大合併」も落ち着き、クライアントからこの仕事が終わると告げられた2003年、起業を決めた。
「クライアントが大きな会社で、4年間も一緒にやってきたので『なにか別の案件もお願いしたい』という話をもらったんです。それならぜひ、ということで会社を作りました」
「オフィスP’dj」という社名は、父親がつけた。「Plan do Japan」の略で、「日本をプランするぐらいの気持ちを持って仕事をしよう」という意味だ。
クライアントから新たに請け負うのが松本市の仕事だったこともあり、「諏訪と松本の中間」で塩尻にオフィスを構えた。
それから数年間、安定的に仕事の依頼があり、2011年には社員も6人に増えていた。順調だったビジネスがいきなり暗転したきっかけは、3月11日に起きた東日本大震災だった。
「クライアントからの仕事がほぼ自治体の案件だったんですが、どこの自治体も基本的にホームページのリニューアルを自粛や延期することになったんです。うちは3月末が決算なんですけど、 4月1日には今年度赤字確定というぐらい一気に仕事がなくなりました」
当時、吉村さんの会社は創業時からのクライアントの依頼がおよそ9割を占めていたため、売り上げが9割減ることになった。
いきなり崖っぷちに追い詰められ、数カ月も経つと資金繰りに行き詰まった。自分の給料を出す余裕はなくなり、社員に給料を支払ったら、預金残高が500円になった日もあった。このタイミングで会社を離れる社員もいた。
「もうダメだ……」と何度も諦めかけた吉村さんが踏みとどまれたのは、塩尻の青年会議所のメンバーの存在があったから。
「若手の経営者のメンバーと地域の活動をしていたんですが、僕は会社が大変だと話すのは恥ずかしいことだと思っていたんです。でも本当に苦しくなった時に打ち明けたら、みんなが『そういうこともあるよ』と自分たちが大変だった時のことをいろいろ話してくれたり、ある人は、一緒に銀行に行って支店長に話をしてくれて、そのおかげで当面乗り切れるお金を借りることができました」
それでも危険な綱渡り状態だったが、青年会議所のメンバーをはじめ、吉村さんの苦境を知る人たちが仕事を紹介してくれた。その案件をひとつ、ひとつ積み上げていくことで、なんとか窮地を脱することができた。その過程で、地域貢献したいという想いが芽生えた。
「塩尻は不思議な地域で、他の地域から来た僕のようなよそ者に対しても一緒にやろうぜってオープンに接してくれるし、頑張ろうとする人を応援する文化があるんです。うちもあれだけ大変なことがありながら生き残ることができたのは、この地域だったから。地元の人は気づいていないけど、塩尻の魅力は人。人が魅力的なこの町とともに発展していこうと思いました」
震災前に立地だけで選んだ塩尻が、恩返ししたい町になった。そうして2018年から「ハッピーハロウィーンinしおじり」の実行委員長も務めるなど、商店街の活性化やまちづくりに積極的にかかわるようになると、少しずつ売り上げも回復していった。
ほぼ1社に頼り切っていた震災前と違い、現在はクライアントも多岐にわたる。それは再び災害が起きた時に同じ轍(てつ)を踏まないためのリスクヘッジだが、吉村さんが塩尻という町を盛り上げようと活動してきた成果でもあるだろう。
「今では、震災後の出来事は経営者として本当にいい勉強だったと思っています。今は1社の売り上げが全体の2割を超えたら、他の柱を太くしなきゃいけないと思って動くようにしています。そのため現在は、ケーキ屋、ホテル、介護施設、お寺までいろいろな業種の方たちと取引しています」
現在、社員は12名になった。介護施設の運営も手掛け、そこを含めるとより多くの社員と関わっている。会社の規模が大きくなるとより利便性の高いエリアに移転する企業も珍しくないが、吉村さんに塩尻を離れるという選択肢はない。結婚してから妻の実家がある辰野町で暮らしていたが、3年前、塩尻に住まいを移した。
公私ともに塩尻市民となり、今年(2022年)開催された「ハッピーハロウィーンinしおじり」でも実行委員長として準備と運営に奔走した吉村さん。頭のなかでは、これからどうやって塩尻を盛り上げていくかのアイデアが渦巻いている。
「ハロウィーンの日は、商店街に1万5000人が集まるんですよ。1日だけにしても、すごいことですよね。町を一気に変えるのは無理だとしても、その1日を2日にして、2日を1週間、1カ月にするということなら目標を立てられるから、これから10年かけて、10月だけは本当に人が賑わっていてすごいよねと言われる町にしたいですね。その頃には60歳になっているから、次の世代にはその賑わいを1カ月と1日にしてもらい、その期間を少しずつ伸ばしていってほしいですね」
取材:2022年11月
text:編集部 photo:遠藤愛弓
edit:今井斐子、近藤沙紀