昨年、サッカーJ2リーグで優勝し、J1昇格を決めた松本山雅FC。アウェイの試合の日になると、塩尻市のウイングロードショッピングセンターから、サポーターの声援が聞こえてくる。駐車場の4階で松本山雅FCアウェイ戦観戦イベント「塩尻エキサイティングビジョン」が開催されているのだ。巨大スクリーンと移動席130席を常設しているこの場所は、松本山雅を応援する塩尻市民にとってお馴染みの場所になっている。
クラブの名称に「松本」とあるが、ホームタウンは松本市だけでなく、塩尻市、山形村、安曇野市、大町市、池田町、生坂村も含まれている。今年に入ってからJ2リーグ優勝杯と優勝記念トロフィーを展示するホームタウンキャラバンが行われ、塩尻のえんぱーくでも1月21日から27日の間、展示された。
塩尻市とも連携を深める松本山雅。「塩尻でいろいろなことに一緒にチャレンジさせてもらいたい」と語る神田文之社長に話を聞いた。
2019シーズン、「境界突破」をスローガンに掲げる松本山雅。まずは、そのスローガンを体現するような神田さんの歩みを振り返りたい。サッカー選手だった神田さんが、松本山雅に在籍していたのは2005年9月から11月までのわずか3カ月。退団のタイミングで現役を引退し、12月には東京都内の不動産会社で営業の仕事に就いた。不動産の営業職だった神田さんが、松本山雅に戻るきっかけは?
「2011年12月に松本山雅のJ2昇格が決まったんですが、その日、私は新宿の不動産会社の事務所にいて、Yahooニュースでそれを知ったんですよね(笑)。その時は『ついに山雅もここまできたか』と思っていたんですが、その翌週に前社長である大月(弘士)から電話があって『話したいことがあるから、新宿まで行く』と言われて驚きました」
数日後、大月社長(当時)と新宿で会った際に、「戻ってきて営業やらないか?」と誘われた神田さん。引退後も、松本山雅の選手と交流を続けていたが、クラブの経営陣とは特に交流はなく、「戻ってほしい」というような話もそれまで一切なかったそうで「突然の話で、思いもよらなかった」と振り返る。なぜ、大月社長は神田さんに声をかけたのだろうか?
「選手時代は、引退が決まっている状況で、助っ人で3カ月だけと言われて松本に行きました。そういう意味では、当時のフロントやトップの人たちにとって、選手として相対するというよりは、話がしやすい立場だったのかなと思います。それもあって、僕もひとりの人間として、当時の山雅をつくった方たちと接することができたと思うんです。その後に東京で社会勉強していることも知っていたので、『あいつがいいんじゃないかな』と思いついたんじゃないですかね?(笑)」
不動産会社で6年働いているうちに、「独立したい」「スポーツに関わる仕事をしたい」と思うようになっていた神田さんは、松本に戻ることを決めた。この決断には、現役時代に感じた松本の印象も影響している。
「私は3つのクラブを経験していますが、松本はいちばん素朴で、人の温かみは感じた町でした。サッカー選手としてというよりは人として迎え入れてもらった気がします」
2012年から松本山雅の営業職として働き始めると、名刺の渡し方などのビジネスマナー、営業として顧客と向き合う姿勢、お金を稼ぐことの難しさとお金を出してもらうことのありがたさなど、ビジネスパーソンとして培ってきた経験がすべて活きたという。
松本での日々は、松本山雅のポテンシャルを実感する毎日でもあった。
「僕が現役の時はファンも少なくて素朴な雰囲気だったんですが、J2に上がった時にはサポーターも増えて、今と同じ熱い雰囲気になっていました。でも、マーケティングの力やブーム的な盛り上がりじゃなくて、ひとりひとりのサポーターの地元愛やサッカーが好きという気持ちが自然と浸透して、試合を観に来てくれた方がまた誰かを呼ぶようなつながりが見えるんですよね。これはJリーグのほかのクラブでもなかなか見えない光景で、本当に奇跡的な広がりだったんじゃないかな」
サポーターの熱狂に背中を押されるように、2014年、松本山雅はJ2で2位に入り、J1昇格が決定。J1初挑戦の2015シーズン開幕前に、神田さんの社長就任が発表された。
「前社長は経営者だったので、J1に上がって本気でこの仕事に専念する社長が必要だとなった時に、クラブのOBでもあった僕がバトンを受ける形になりました。クラブに戻って3年で社長になるということでサポーターも驚いたと思うんですけど、この話もギリギリまで聞いていなかったので、僕が一番驚いたと思います。ただ、スポーツ界の発展にはビジネスマンという意識を持ったフロントが必要だと思っていたので、すごくやりがいを感じて、受けさせてもらいました」
不動産会社で営業の仕事をしていた2011年からわずか4年後、松本山雅の社長に。まさに、「境界突破」の歩みである。2015年シーズンは1年でJ2降格が決まってしまったが、J2での雌伏の3シーズンを経て再びJ1に復帰した。社長になってからの4年間、降格、昇格を経験するなかで神田さんはどのような想いでクラブを率いていたのだろうか?
「私は根っからの営業マンの性格ではなかったので、営業をしている時はいかに自分を応援してもらえる人をつくるか、自分を理解してもらえる人をつくるかを考えてきました。これって山雅のファンが増えていった経緯と似ている気がするんですよね。だから今の立場になっても、一方的な関係じゃなくて、双方向で共感できるような関係性をつくることで山雅のファミリーを増やそうと思って向きあってきました」
その成果は確実に表れている。2018年シーズンのJ1からJ3までの全57クラブの平均観客数ランキングで、松本山雅は1万3,283人で17位。スタジアムのキャパシティが約2万人のなかで、常に7割弱の席が埋まっていた計算だ。J1、J2というカテゴリーにかかわらず、試合の日にはサポーターがスタジアムに足を運ぶ習慣ができあがっているのだろう。
神田さんの理想は「地域の皆さんの日常会話のなかで、昨日、山雅勝ったね、負けたねと山雅の話題が出てくること」。そのために、塩尻市でも「双方向で共感できるような関係性」を構築していきたいと語る。
「山雅がハブになって、子どもを健全に育成するスポーツクラブをつくりたいんです。塩尻市さんにも拠点があればいいですよね。サッカーだけである必要もないと思うんですよ。地域の子どもの才能を発掘して育てることが大人の役目だと思うんです。松本山雅はこれだけ地域の方に応援してもらう土壌ができているので、環境を整えたり、指導する人材を揃えていくことも含めて、責任を持ってやっていきたいなと思っています」
神田社長が抱く塩尻市のイメージは「チャレンジを応援してくれる町」。だからこそ、「塩尻でいろいろなことに一緒にチャレンジさせてもらいたい」と意気込む。
「壮大な計画から細かい計画まであるんですけど、松本市より塩尻市でやりやすいこともあると思うんです。今後、塩尻市でプロジェクトを本格化させる前のトライアルみたいな取り組みができたらいいなと思っていますし、塩尻での新しい取り組みが広域展開の起爆剤になってくれれば嬉しいですね」
松本市と塩尻市、行政の区分は異なるが、松本山雅にとっては同じホームタウン。スタジアムにいけば、みんな松本山雅のファミリーだ。神田さんはスポーツの境界、地域の境界、あらゆる境界を突破して、市民が育んだ松本山雅のパワーを町に還元しようとしている。
取材:2019年5月
text:川内イオ、photo:望月葉子