塩尻を「チャレンジできるまち」にしたい!

塩尻商工会議所 元会頭/信州塩嶺高原カントリークラブ代表 山田正治さんの耕し方 2019.1.15

「合わせ技で一本」を目指す

「考えとるだけではね、だめなんですよ。なんでもやってみないと。つらい目にあったり失敗するかもしれないけど、そこから学べるものはものすごく多いんですね。やらないと失敗も起きないし、成長もしないじゃないですか。だから私は、若い人たちが何かをやりたいといえば、やったらいいと言うんです」

塩尻商工会議所で4期、12年間、会頭を務める山田正治さんはそう語る。1940年生まれの78歳。あと2年で「傘寿」とは思えないほど、山田さんの頭のなかは柔軟だ。


そもそも、商工会議所とはどんな団体かを知らないという方に説明しよう。1949年に設立され、現在、会員数は約2000人。専任職員が会員から経営や人事の相談を受けたり、会員向けの講習会や研修会、まちの振興事業を企画、運営しているところだ。

山田さんが会頭になってから、塩尻商工会議所の主催でいくつかのイベントや事業が始まった。例えば、2011年から始まった「木育フェスティバルイン信州しおじり」や12年にスタートした「塩尻知る知りゼミナール(シリゼミ)」、14年に始まった学生向けの「実践型インターンシップ事業」もそうだ。

こういった企画は、商工会議所のなかから「やりたい」という声が上がり、山田さんはよほどのことがない限り「やったらいい」と背中を押し、強力にサポートしてきた。

「これからの塩尻で大切なのは、長野県一だと誇れるものをいくつつくるか。ワインや漆器はあるけど、ほかの地域にある松本城、上高地、善光寺、軽井沢ほどのインパクトはないでしょう。だから、柔道に例えれば合わせ技で一本とると。そういうパターンをつくっていくためにも、いろいろな人がチャレンジすることはとても良いことですよ」

塩尻の未来のために、種を蒔く山田さん。その言葉からはいかにも「地元愛」という印象を受けるが、実は、塩尻とは縁もゆかりもない育ちだというから驚きだ。

聞いたこともない町

「出身は愛知県の清須市というところですね。織田信長の清洲城があるところ。そこで高校まで過ごして、大学は四年間東京に行きました。その後、名古屋に戻ってきて、22歳の時に会社を設立しました。学生の時に東京で森ビルとかの仕事を見て憧れてね。母が持っていた土地があったから不動産開発を始めたんです。私は6歳の時から母子家庭だったんですね。だから早いところ一人前になってお袋を楽にしてあげたいと思って」

当時も今も、大学を卒業してすぐに不動産開発を始める22歳など稀な存在だ。仕事を始めたばかりの頃、取引相手に「ボク、ほんとにやるの?」と言われたこともあるという。

大卒の初任給が1万7000円ほどの時代に、学生風の若者が「ビルを建てたいから」と銀行に5000万円の借金を頼んでも、気軽に「いいですよ」というところなどなかった。それでも方々に頭を下げ、東奔西走しているうちに応援してくれる人たちも現れた。

「若い頃は、みんな心配してくれるんですよ。最近は年を取ったから、誰も応援してくれないし心配もしてくれない(笑)。だから、何かするなら若いうちがいいんです」

そうして少しずつ事業が軌道に乗り始めて、29歳の頃。友人が「塩尻でゴルフ場を始めるから、一口加わらんか?」と誘われた。山田さんはそれまで、長野に足を踏み入れたのは一度きり。小学生の時、おばさんに連れられて志賀高原に行ったという遠い記憶しかなく、塩尻という町の存在も知らなかった。

しかし、友人の頼みを無下に断ることもできず、誘いに乗って応援することにした。ところが間もなくして、友人の会社が傾いてしまう。そして、この事業の後継者として指名されたのが山田さんだった。

「私はゴルフをしたこともなかったし、塩尻に行ったこともない。知り合いも友達もいない。だから、周りからはわざわざそんなところに行ってゴルフ場を作らんでもいいじゃないかと言われたんですよ。でもやらざるを得ないような流れになってね」

苦難の道のり

無茶ぶりのような形で引き継いだこのゴルフ場計画の結果、できあったのが塩尻市の北小野にある信州塩嶺高原カントリークラブ。標高1000メートルに位置し、遠く穂高の山々を望む気持ちの良いゴルフ場だ。

山田さんによると、当時の北小野には70戸ほどの集落があり、自給自足に近い生活が営まれていたという。そこを開拓してゴルフ場を作る目的は「地域の雇用創出と村おこし」。今の地方創生と同じ流れだったが、70万坪に及ぶこのゴルフ場が完成するまでには、たくさんの壁を乗り越えなくてはならなかった。

例えば、それまで借りたこともない億単位の資金を調達するために、あちこちの金融機関に足を運んだ。また、集落のひとたちも最初から全員が賛同していたわけではなく、自ら一軒、一軒に足を運んで説得にまわった。……などなど詳細は割愛するが、山田さんが「今、同じ話がきても絶対にやらない」と断言するほど、苦難の連続だった。

途中でもう投げ出したいと思いませんでしたか? と尋ねると、山田さんは「何度も名古屋に帰ろうと思ったよ」と苦笑する。それでもなんとか完成にまでこぎつけたのは、応援してくれる人たちや地元の住民を裏切ってはいけないという思いがあったからだ。



頼みのリリーフエース

山田さんの人柄がわかるエピソードがある。1973年にオープンしたゴルフ場も数年たつと経営が安定し、「そろそろ名古屋に帰ろう」と思っていた時のこと。ゴルフ場を作る際に融資をしてくれた金融機関から、「破たんした白馬五竜のスキー場の経営を立て直してほしい」と連絡があった。山田さんは白馬に行ったことがないどころか、スキーの経験すらなかった。とはいえ、付き合いのある金融機関からの依頼を簡単に断ることもできず、「うまくいくように応援します」と伝えた。

そう、ゴルフの話と同じ流れである。案の定、いつの間にか山田さんが社長に就いて立て直すということになっていた。

「五竜という場所ですけど、五流ではダメですよね。昔はオリンピックでも5番目で入賞してれば褒められたけど、これからはメダルが取れる3番目までに入らないと注目されない。せめて、五流を二流にせなあかん。二流になれば、なんとかやっていけるでしょう。それで、社員を集めて『みなさん、二流になるところまでいくぞ』と言いました」

これが40歳の時。それから少しずつ経営状態は上向いていき、もう大丈夫だろうという頃合いを見計らって退任。社長就任からあっという間の23年が経っていた。

大役を果たし、「今度こそ名古屋に帰ろう」と思っていたその時に待っていたのは、「塩尻商工会議所の会頭に」というオファー。話を聞いてすぐに断った……はずなのに、気づけば会頭になっていた。お気づきだろう。ゴルフ場、スキー場と同じ展開だ。にっちもさっちもいかなくなった時、最後に頼られるリリーフエース、それが山田さんなのである。


冒頭に記した言葉。

「考えとるだけではね、だめなんですよ。なんでもやってみないと」

これは、山田さん自身がそうしてきたからこその実感であり哲学。だから、若者の挑戦を応援することができるのだろう。

思いもよらぬ形で、名前も場所も知らなかった塩尻に住み始めて、48年。今ではすっかり身も心も塩尻市民になっていた。

「名古屋からひとりで塩尻に引っ越してきて、塩尻の女性と結婚して、家を建てて、子どもを三人作りました。60人ほどいるゴルフ場のスタッフも、みんな地元の人たちです。それは愛着もわきますよ。名古屋と比べたら塩尻は空気と水が抜群に美味しいしね」

text:川内イオ、photo:望月葉子

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