今年11月1日から1週間、伊勢丹新宿店で「Modern Japanese Tea style ~たしなみ、もてなす。」という催事が行われた。人気の料理研究家・宮澤奈々さんのプロデュースで、日本茶をモダンに楽しむことをテーマにした茶器やテーブルウェアが展示された。
バカラやカッシーナといった世界的ブランドの器やダイニングセットなどが並ぶなかで、塩尻の木曽平沢に本店を構える山加荻村漆器店が宮澤奈々さんとコラボレーションしたオリジナルのお盆「BON TEMAE」「SUZU bon」や屠蘇器「TOSO」も展示された。
創業明治45年の山加荻村漆器店は伝統的な漆器の製作を手がけるが、今回のイベントで披露された品々の多くは、いわゆる漆塗りの食器のイメージとは趣が異なる。
食器洗浄機で洗えるように漆は使わずウレタン加工。艶消しの黒やシルバーを基調としたマットな風合い。現在、山加荻村漆器店の社長を務める3代目、荻村実さんはこのオリジナル製品をつくり始めたとき、先代から「こんなの売れるだが?」と疑問を呈され、東京のテーブルウエアショーに出した時には、関係者から「何だ、これ?」と言われたと苦笑する。
しかし、先人たちの心配は杞憂だったようだ。現代のテーブルでも気軽に茶道を楽しめることをコンセプトに、漆塗りの抹茶のお椀とシルバーの茶道具を組み合わせた新作「BON TEMAE」は今回のイベントで完売し、追加注文も受けた。そして会期中、新宿伊勢丹店の路面のショーウィンドーでは同社の蒔絵師、荻上文峰さんが「アルチザン(職人)」として紹介され、「BON TEMAE」が展示された。
荻村さんは振り返る。
「5年前、宮澤奈々さんと一緒にオリジナルシリーズをつくることになったとき、マットな色味にしたいと職人さんに伝えたら、『あれじゃあちょっと中途半端だから綺麗にしてやったよ』って、普通の漆器みたいにピカピカに仕上げてくれたんです(笑)。それで、ありがとう、でもいまやりたいのはこれじゃないんだよね、というやり取りを本当に何回も何回も重ねてようやく完成しました。このシリーズをつくることで新しい層のお客さまにアプローチできたし、うちのブランドを知ってもらって漆塗りの木の器に興味を持ってくれる人も増えました。挑戦してよかったですね」。
なぜ、荻村さんは家業である「漆」をあえて使わないオリジナル商品の開発を決意したのか。その裏には、荻村さんのキャリアと危機感があった。
子どもの頃から漆塗りの器や職人さんに囲まれて育ち、漠然と「いつか、この仕事を継ぐんだろうな」と思いながら育ったという荻村さん。しかし大学卒業後の1988年、大手百貨店「三越」に就職した。
「初代の祖父の時代から、手間と時間がかかる伝統工芸をビジネスとして成り立たせて、家族や従業員を養っていくことがどれだけ大変なことか、目の当たりにしてきましたから。大学生のときには、2代目の父から冗談まじりに、この仕事は大変だから継がなくていいぞ、と言われました。だから三越で働き始めたときは、ここで一生働こうと思っていたし、両親も“三越に勤めてれば安泰だから、頑張りなさい”という雰囲気でした」。
ところがいくつかのやむを得ない事情が重なり、荻村さんは6年で三越を退職して実家に戻った。その時の心情をこう振り返る。
「ちょうどバブルの弾けた頃に帰ってきたので、取引先の旅館がどんどん潰れて、売り値もどんどん下がっていくし、職人さんも高齢化していて、会社の先行きは不透明だし、まあ、不安ばかりですよね。三越時代とのギャップも大きくて、日々辛いといえば辛かった」。
景気が良い頃、主にテーブルや座卓を製造し、ホテルや旅館に納めていた木曽平沢の漆器店にとって、バブル崩壊で納入先が次々と廃業したことによるダメージは大きかった。
そのなかで山加荻村漆器店は地道に営業を続けながら、次の一手を打った。それは、荻村さんならではのアイデアだった。
和食店とコラボレーションし、一階に山加荻村漆器店の漆器で料理を出す和食屋さん、二階にその漆器を扱うショップが入る拠点を東京に立ち上げたのだ。和食店で実際に漆器を手にしてもらい、その魅力を知ってもらったうえで漆器を見てもらおうというこれまでにないチャレンジだった。
「百貨店の売り場は小さくなり、専門店も減っていくなかで、昔ながらに物を展示しているだけではダメだということで、使ってみて良さをわかってもらおうと思ったんです。もちろん、大ヒットするようなものではありませんでしたが、やっぱり店で使ったものは売れるし、すごく喜んで買ってもらえるんですよ。お客様が、ありがとうと言ってくれる。そういうお店は私の理想だったので、すごく楽しかったですし、お客さんの喜ぶ顔を見て、開いて良かったなと思いました」。
漆器ひとつを売るのではなく、漆器のある生活を提案する。東京で店を仕切っていた荻村さんは、現代のトレンドの先駆けのようなスタイルに手応えを感じていた。ところが店を開いて5年が経った頃、再びやむを得ない事情で実家に戻らざるを得なくなり、泣く泣く東京の店を閉めた。
そうしてまた木曽平沢で、これからどうしようかと頭を悩ませていたときに、宮澤奈々さんとの出会いが生まれた。それは荻村さんの妻と妹が通っていた写真の教室から偶然の縁がつながったものだった。
「最初の頃は、お客様からのオーダーに応じてものをつくるといういつもの流れで、宮澤さんの希望に応えて器をつくっていました。でも宮澤さんのオーダーは、素材も見た目もいわゆる普通の漆器ではないんですよ。木曽漆器かといえば違うかもしれない。それがおもしろかった。漆器屋はいろいろなものをつくっているけど、オリジナルと言えるものはあんまりないです。うちの特徴は何? と聞かれたときに、“これです”と言えるものが欲しいと思っていたから、宮澤さんの器をつくっているうちに、“これだ!”と思うようになりました」。
もし荻村さんが、漆器店が手がけるものは木を使わなきゃいけない、漆を使わなきゃいけないという固定概念に縛られていたら、「そういうものはつくれません」で終わっていたかもしれない。
若い頃に三越という伝統とトレンドの両方に敏感な職場に6年間身を置き、感性を磨いたこと。東京で5年間、「漆器のある生活を提案する」という新たな挑戦をしたこと。そして、いつも「このままじゃダメだ」と危機感を抱き、アイデアを考え続けたこと。 この経験があったからこそ、宮澤さんの提案を受け入れることができたのだろう。いまや、それが山加荻村漆器店のブランドになり、商品と手がけた職人が伊勢丹新宿店のショーウィンドーを飾るまでになったのだ。この取り組みが新たな顧客層の開拓につながり、漆器の売り上げに結びつき始めている。
変化をいとわない荻村さんは、2017年7月からインターンの受け入れも始めた。しかも未知数の学生3名を、半年間という長期にわたって。これも、何もしなければ閉塞してしまいがちな伝統工芸の世界に新風を送り込もう、まっさらな若者のポテンシャルに期待しようという荻村さんの心意気の表れだ。
ミッションは、漆器の情報を発信し、見せ方、売り方を工夫して、安売りせずに海外に売ること。目標価格は1000万円だ。もちろんハードルは高いが、この試みは学生だけでなく、山加荻村漆器店にとって価値あるものになる。一歩を踏み出すことの大切さを知る荻村さんは、そう確信している。
取材:2017年11月
text:川内イオ、photo:望月葉子